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日本の原子力損害賠償制度の成立までの鳥瞰図メモ [原子力損害賠償制度]

第0期
昭和30年の日本と米国のウラン協定調印による原発技術の輸入と原発建設路線の方針、それによる原子力災害の補償の仕組みの必要性が浮上。
「昭和33年度原子力開発利用基本計画」で「核燃料経済,災害補償等の部会を新設」を明記。
昭和33年10月29日に原子力委員会専門部会の設置と原子力委員会決定「原子力災害補償の基本方針」まで。

第1期
 原子力委員会内に原子力災害補償専門部会(会長 我妻 栄)の設置から
昭和34年12月12日の我妻専門部会の答申まで

第2期
我妻専門部会の答申から
昭和35年5月2日の「原子力損害の賠償に関する法律」(案)の国会上程まで。

 第2-A期 昭和35年2月24日、原子力委員会の内定「原子力災害補償制度の確立について」まで

 第2-B期 昭和35年3月26日、原子力委員会の決定「原子力災害補償制度の確立について」まで

 第2-C期 昭和35年5月2日の「原子力損害の賠償に関する法律」(案)の国会上程まで

第3期
 「原子力損害の賠償に関する法律」(案)の国会上程から
昭和36年6月17日の同法と「原子力賠償補償契約に関する法律」の成立まで。

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タグ:原賠法

米国海軍と原子力発電 リッコーヴァー提督とTMI事故 番外 [原子力損害賠償制度]

PWRの原子力発電所の生みの親

1954年1月に、実用で原爆・原子力爆弾以外に核分裂のエネルギーをつかう初めての道具ができました。米海軍の原子力潜水艦「ノーチラス号」です。 1946年にHyman George Rickover、ハイマン・リッコーヴァー大佐が立案しました。彼は連続63年間、原潜部門のトップにあり原子力潜水艦の開発、配備を推進した「Nuclear Navy(原子力海軍)の父」と称され、海軍大将にまで昇りました。
詳しくは http://hatake-eco-nuclear.blog.so-net.ne.jp/2014-07-07

この潜水艦では原子炉で取り出されたエネルギー、水蒸気は、大半が蒸気タービンでスクリューの回転力=推進になり、一部が発電機で艦内の電力になる設計です。これが陸上で水蒸気を全て発電機に廻して、PWR・加圧型軽水炉の原子力発電所が実用化されました。シッピングポート原発で1958年に運転を開始した世界初の商業用原発です。

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ハイマン・リッコーヴァー氏が烏賀陽弘道氏の「ヒロシマからフクシマへ」の第8章核エネルギーを潜水艦エンジンにした男で取り上げられていました。この本全体では武谷三男氏の「原発は安全だという人がやっていると危ない、危険だという人がやって、ようやく何とか危険が避けられる」という言を改めて強く感じました。

ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅

ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅

  • 作者: 烏賀陽弘道
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
特にリッコーヴァー氏で強く実感しました。烏賀陽氏は「リコーバー」と表記されている。
第8章から抜き書きと覚え書き
168頁
ノーチラス号が完成したのは1954年1月。・・1953年12月の「核の平和利用=原子力発電を同盟国に供与する」という外交政策は、PWR型原子炉の実用化のめどがたったからこそ可能だった。
オブニンスク(2).jpgmemo・・1954年6月27日(日曜日)に世界最初の原子力発電所、ソビエト・ロシアのオブニンスクが運転を開始した。原子炉は黒鉛減速・水冷却
1956年10月に英国のGCR1号機運転を開始、GCRは黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉。
1958年に、リコーバーのシッピングポート原発で運転を開始。「世界初の商業用原発」。
商業用というのがミソ
核分裂エネルギーによる発電は、1948年9月に米国のX-10原子炉。本書の111頁、155頁。
本格的な原子力発電所はソビエト・ロシアに先を越されたし、、、
英国が先にやりそうだ。
この二つは、国営だ。そうだ、民間で採算がとれる安価だというので差別化という米国の情報戦略が「商業用」との冠

170頁(以下略)
乗組員の養成コースも自分で編成した。Naval Reactors Program という。海軍で最高位の階級に上り詰めても、原子力潜水艦に乗り組む士官は必ず自分で面接して、少しでも納得がいかないと合格させなかった。その数は1万4000人に上る。
174
海軍で原子炉の訓練を受けた乗組員たちが退役したあとの最大の就職先が原子力発電所だった。士官たちは退役して政治やビジネスの世界にも進出した。リコーバーはそんな「アメリカの原子力ムラ」から「オヤジ」("the Old Man""the Old Guy")と呼ばれた。

memo・・日本では原子力発電産業や電力会社の中だけで人材の育成から就職の輪が閉じられている。
173
原子力潜水艦は、世界大戦ともなれば人類を滅亡させることができる核ミサイルを積んで水に潜る。戦闘になれば、全速力で動き、曲がりながら原子炉を運転しなければならない。機雷や魚雷を撃ち込まれても原子炉を運転できなくてはいけない。
 万一ワシントンや司令部との通信が途絶した場合は、ミサイルを発射するかどうかを乗り組み士官が独力で判断しなければならない。大学院レベルの原子力工学の知識だけでなく、冷静沈着な人間性があるかどうか。強靭な理性があるか。複雑な状況から行動を決める思考力があるか。それが確かめらなければ、リコーバーは乗り組みを許さなかった。

 リコーバーは人間と核技術の関係について、醒めた考え方を持っていた。人間はミスをする。機械は壊れる。予想外の事態が起きる。ひとたび起きれば、結果は甚大である。
「最高に訓練されたスタッフ。最高に整備された機器。最高に磨かれた操作基準があっても、ミスを許容できる余裕が設計に入っていなければならない。」
 それが持論だった。
 原子炉の安全設計には二重、三重の対策を求めた。
 電力会社が所有・運用していたショッピンポート原発にも、海軍の自分の部下を常駐させ点検させるよう主張して譲らなかった。
 「所得税を本人の自己申告だけにさせて検査を入れなければ、正しい申告などしないだろう。それと同じだ。人間の本質と矛盾するのだ。」
 それが理由だった。
176
スリーマイル島(TMI)原発で事故が発生した時、カーターが原因究明に熱心だった理由には、こうした原子炉工学や原子炉事故の経験がある。海軍は政界や実業界に核技術の知識がある人材を送り出しているのだ。
 TMI事故から2か月たった1979年5月27日、カーターは家族を連れてお忍びでワシントン郊外のリコーバーのアパートを訪ねた。・・大統領特別事故調査委員会(ケメニー報告)の内容と結論をどう見るか、個人的なレポートを書いてくれないかと依頼したのだ。カーターはかつての上官が核について楽観論者でもなければ悲観論者でもない、現実主義者あることを知っていた。そして海軍の潜水艦は原子炉事故ゼロを続けていた。
 半年後、リコーバーは報告書を批判する個人的なレポートをホワイトハウスに届けた。
「NRC(原子力規制委員会)をいくら拡充・強化しても、安全性の向上につながらない」
「安全性の向上には訓練しかない」それが大意だった。
177
 「私がリコーバー提督から聞いた言葉で忘れられない言葉が一つある。かつて一緒に潜水艦に乗ったときに彼は『核爆弾なんて発明されなければよかった』『原子力なんてなければよかった』と言った。私は驚いて『提督、原子力はあなたのじんせいじゃないですか』と言った。『いや』。提督は言った。『もし核兵器の誕生を防げるのなら、私の生涯の業績を手放したって構わない。船のエンジンだろうと、医療用放射線だろうと原子力発電であろうと、原爆を無くせるなら喜んで手放す』」(CBS 『60 Minutes』ダイアン・ソイヤーのインタビューでのカーター発言)
「放射能が出れば、時には半減期が数億年かかる物質だって出てくる。人類はそのせいで破滅してしまうかもしれない。この恐ろしい力をコントロールして、消し去ってしまうように努力しなけばならない。」(1982年、議会公聴会でのリコーバー証言)
 1986年になって公表された義理の娘のジェーンの証言によると、リコーバーはこう言っていたという。
 「TMI原発事故の調査報告書が全部公開されてしまったら、これまで公表されていたより事故がずっと危険な状態だったとわかってしまうだろう。そうなれば、民間の原子力発電産業は壊滅的な打撃を受ける。そうならないように、あらゆる人脈を動員してカーター大統領に報告書の『上澄み』の部分だけを公表するように説得した。」「しかし、報告書の警告を発していた部分が公表されないようにしたことを、父は深く後悔していた。」
「もし放射能が大気に放出されるなら、原子力など価値はない。『じゃあ、何故原子力エンジンの艦船などつくったのだ』と思うだろう。必要悪だからだ。今すぐ艦船全部沈めても惜しくない。私は自分が果たした役割を決して誇りに思っていない。この国の安全にとって必要だから任務を果たしたのだ。私が戦争のバカバカしさに全力で反対する理由はそれだ。戦争を防ごうとする試みはことごとく失敗してきた。歴史を紐解けば『戦争になれば、どんな国でも最後は使える武器は何でも使う』がその教訓だ」(1982年、議会公聴会でのリコーバー証言)

memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 戦略爆撃理論の虚妄(11) [原子力損害賠償制度]

8月9日、最高戦争指導会議が午前10時から断続的に開かれた。ソ連参戦、長崎の原爆空襲も伝わるが、無条件降伏か本土決戦か結論が出ない。午後11時から御前会議が開かれ、日付が変わり10日午前1時半頃に天皇の「御聖断」を仰ぐ形で無条件降伏が政府方針となる。
天皇が述べた理由に戦略爆撃の効果が出ている。
 「今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。」

戦略爆撃理論の破たん

米国の戦略爆撃 strategic bombardment の、strategy 戦略は、敵国の産業構造全体の中枢(hub)を最初に空中から敏速に決定的な破壊攻撃を連続し、叩けば、敵の物、心の両面の資源破壊により反撃を極端に激減させ、勝利できるという戦略。戦闘の目的は、兵士対兵士の殺戮による敵国軍隊の殲滅から変わって「敵国家の直接破壊」。

 ドゥーエ将軍の理論では兵士、民間人に区別はない総力戦であるから高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾などによる人口密集地の住民への爆撃、無差別爆撃は、当然の攻撃として肯定されている。米国の戦略爆撃では、人口密集地の住民は産業構造全体の中枢(hub)ではないから、標的には含まれない。

 しかし、産業の中枢(hub)がマヒすれば、軍需だけでなく民需、市民、子供や老人など非戦闘員の暮らしの営みに応じる生産も崩壊する。爆撃精度から、必然的に中枢(hub)周辺に着弾する。数的には周辺部着弾の方が多い。都市破壊と人的被害は、着弾数が多いのだから甚大になる。理論的には、意図しない計画しない都市破壊と人的被害、市民、子供や老人など非戦闘員の暮らしの破壊がおこる。

 第二次大戦でのドイツへの戦略爆撃は、ドイツ軍の迎撃戦闘機、高射砲という防空戦力と米軍機の爆撃精度の2点から、1942年8月の参戦から米航空軍は実戦では爆弾と焼夷弾を”ばら撒い”ている。都市破壊と焼殺(ホロコースト)による人的加害を行っている。43年の11月以降は夜間爆撃、レーダー爆撃を行い、非公式に無差別・焼夷弾爆撃を行っている。

 44年11月24日以降に本格化する対日戦略爆撃は、そのドイツの事実上の無差別空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将を45年1月21日に司令官に据えた。彼は、鉄道網、炭田という産業構造の中枢(hub)を、主目的にした空爆は殆ど行っていない。航空軍本部命令に従って、無差別の焼夷弾空襲、焼殺(ホロコースト)を45年3月中旬から行った。最高司令官の大統領の命令に従って、原爆も投下した。
 戦後、ルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子どもを殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは―ふざけるな」と語った。(荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書139頁)ナチスドイツのアドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann)の「命令に従っただけ」との主張と同じである。

戦闘の目的が、兵士対兵士の殺戮による敵国軍隊の殲滅から「敵国家の直接破壊」を名目、隠れ蓑とした「敵の地域社会の壊滅」に変わっている。

 3月10日の大空襲の後も、東京は約100回の空襲を受けている。このように通常爆弾と焼夷弾による無差別空襲は繰り返さなければならない。理論的にも、産業の中枢(hub)が修復されたら再び空襲をしなければ、効果が失われる。この繰り返しを絶つために、チャーチル英首相は米国に「炭疽爆弾」50万個を注文した。

 原子力爆弾は、残留放射能が持続的に被曝加害する。米国は、その効果を知悉していた。原爆開発責任者のグローブス将軍は1945年8月12日公表のマンハッタン計画の公式報告書、通称スミス・レポートから「放射能は毒性が強い」との記述をグローブズ自身が削除している。米統合参謀本部のウィリアム・ダニエル・リーヒ(William Daniel Leahy)大統領付参謀長は「この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。」と述べている。

 マッカーサーのベーカー・シリーズという作戦計画では、米ソ戦争が始まったら、朝鮮半島は直ちに放棄して、南朝鮮に駐留している米軍は日本に帰ってくる。そして、ウラジオストク、釜山、旅順、大連という4カ所に核兵器を落とす。この4つの町は当然核汚染され、それで極東ソ連軍は90日の間、そのウラジオ、釜山、旅順、大連を越えて先に進めない。ソ連軍を原子爆弾でアジア大陸に90日間足どめする。ソ連軍が動員をかけるのに30日かかり、合計で120日間ソ連軍は動きがとれない。その間にアメリカの本土からアメリカ精鋭の二個師団が日本防衛のために来援するというのが、マッカーサーの基本的な戦略計画であった。

 原爆の強烈な爆圧、爆風、熱線は、広範な範囲に通常爆弾、焼夷弾を投下した場合の効果を生じる。放射線は、人に被曝加害、物に放射能化(誘導放射能)を起こす。そのうえ、ある程度大雑把に、それこそ1000mや2000m目標から外れても、全く問題は無し。
 原爆は、戦略爆撃の道を究めた、敵の地域社会の壊滅を効率的に行える極道兵器だ。

 ドゥーエ将軍の理論では高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾などによる人口密集地の住民への爆撃、無差別爆撃は、空爆で民衆にパニックを起こせば自己保存の本能に突き動かされ戦争の終結を要求するようになるとしている。
 そして「基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられ戦争は長続きしない。」「長期的に見れば流血が少なくするのでこのような未来戦ははるかに人道的だ」とドゥーエ将軍は無差別空襲を正当化している。

 ドゥーエ将軍の理論が「制空」で出版された1921年、イラクのイギリス委任統治に対し、ベドウィンやクルド人ら自治独立を求める人々の反乱が始まった。英空軍RAFの4個飛行中隊が派遣された。
 「反乱グループが拠点を置く村落全体や家畜が無差別に空襲目標にされ、ベドウィンの場合はテントに居住する女性や子供達も爆撃の犠牲者になった。ここでは、爆弾や機銃だけでなく、焼夷弾も頻繁に使われ、焼夷弾で引き起こされた村落の火災を拡大するためにさらに石油を散布する手段を使った場合もあった。英軍側は、空爆は反乱者たちを短時間に服従させる効果があるため、長期的に見れば『人道的な』反乱鎮圧方法であると主張し、自己正当化した。」

戦争の政治的終結には、戦略爆撃はむしろ有害

クルド人ら自治独立を求める人々の反乱は1世紀後も続いている。米英が戦略爆撃で無差別空襲を加えたドイツ、日本で「民衆にパニックを起こせば自己保存の本能に突き動かされ戦争の終結を要求するようになる」ことは起きなかった。
 
 ドイツではシュタウフェンベルク大佐の「ワルキューレ作戦」などヒットラー暗殺未遂事件が度々あった。「ベルリン市民はナチ体制にどんな懸念を抱いていたにせよ、自分たちが何の意見も言えない、旧いエリートによる宮廷クーデターに夢中になれなかった」。
戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45  ロジャー・ムーアハウス

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1941 ベルリン

軍事力は敵国だけでなく自国の国民にも矛先を向ける。その戦争の終結要求に対して、その矛先が向けられるのは当然である。民衆、市民は前門の狼(戦略爆撃の焼殺)と後門の虎(自国の軍、警察、日本なら玉砕戦術)の狭間でただ佇むしかないのだ。
 ドゥーエ将軍はイタリアの軍人である。英米のシシリー島上陸では、マフィアが手引き、支援をしたという。そういった土地柄、お国ぶりなら将軍の言う民衆の反乱がおきて、戦争を終結させると想定できたのではないか。将軍の言う、戦略爆撃理論の言う無差別爆撃が民衆の反乱を導き、戦争を早期に終結させるという想定は男の子の白昼夢である。「長期的に見れば流血が少なくするのでこのような未来戦ははるかに人道的だ」は詭弁である。

 戦略爆撃は、敵国の地域社会、空襲を受ける地の社会を破壊し人々を焼殺(ホロコースト)する。それで地上戦を行わないで戦争の勝利を得ようとする戦略である。この戦略は戦争の軍事的終結後の占領統治と自国に都合の良い、そして正当性を有した新政府の樹立という戦争の政治的終結には、むしろ有害である。そうした政治的終結を求めないなら、敵国家の破壊を名分にした敵社会の消滅、ジェノサイドに至るのではないか。

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1991湾岸戦争 バクダット

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2014 gaza ガザ
 


memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 戦争が永久につづく冬のような天然現象に思えた(10) [原子力損害賠償制度]

 鬼畜米英の焼夷弾焼殺(ホロコースト)と皇国の玉砕決戦の狭間で

米英の戦略爆撃の無差別空襲を受けたドイツと日本では、理論が想定する民衆が戦争の終結を要求する事、クーデタや革命は起こっていない。
日本の国民義勇隊
 ドイツは国民突撃隊(ドイツ市民軍:Deutscher Volkssturm)を、44年9月25日、連合軍のパリ解放の一ケ月後に組織した。約600万人をドイツ全土を42に分割した地方隊の指揮下に置き、警備と居住地区の防衛戦闘に当てた。
 日本政府は1945年(昭和20年)3月23日、「国民義勇隊組織」を閣議決定し6月に大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会などを吸収・統合し創設した。この義勇隊は、本土決戦に向けた国民の組織化への第一歩であり、本土決戦に際しては全国規模の指揮系統はなく、「軍管区司令官、鎮守府司令長官、警備府司令長官ノ命令ニ依ル」ゲリラ的戦闘を想定していた。

米国は、6月17日以降は、各地の中小都市が焼夷弾、無差別空襲攻撃の対象とした。「中小都市に於ては一夜にして其の八割内外の戸数」が焼失した。広島、小倉(北九州市小倉南区、小倉北区)、長崎、新潟は原爆投下地に選定されいたので、この空襲からは外された。この時期でも、陸上の物流の主役であった国鉄を始めとする鉄道網、炭田という産業構造の中枢(hub)を、主目的にした空爆は殆ど行っていない。航空軍本部の無差別攻撃の命令に従って、無差別の焼夷弾空襲、焼殺(ホロコースト)を行った。空襲による死傷者は約102万人、その半分が死亡者と言われる。

44年7月のサイパン玉砕の際に、日本政府はアメリカ人が「男も女も残忍に陶酔」するような国民であり「負ければ一億がペン軸」にされるといった「おどし」を国民に行った。米軍の3月中旬からの無差別の焼夷弾空襲は、米軍は残虐、鬼畜米英の日本政府の宣伝を、真実と思わせたであろう。

 日本政府は、6月23日に義勇兵役法を公布し、国民義勇隊から「国民義勇戦闘隊」が編成された。約2800万人の義勇兵役は通常の兵役と同じく法的義務であり、召集に応じなければ刑事罰の対象となった。戦時国際法上の戦闘員資格を確保するため、隊員は布製徽章(きしょう)を身に付け、指揮をとる職員は腕章により標識するものとされた。

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内務省警保局「沖縄島失陥に伴ふ民心の動向」によれば、6月25日沖縄の玉砕が発表されたが、「予想に反して格別の反響も示し居らず」、「諦観的放心的症状を払拭せず国民の驚くべき無気魄さは愈々一般化し膠着化し」、「極めて顕著なる敗戦観一色に塗りつぶされたる」。

無差別の焼夷弾空襲という残虐な鬼畜米英と義勇戦闘隊という玉砕・必死(必ず死ぬ)を迫る自国政府との狭間で国民は、思考は停止状態にならざるを得ない、「諦観的放心的症状」になっている

青森市、7月20日頃から、上空に飛来した米軍機が「伝単」、数日中に青森を含む11都市の都市を爆撃するの空襲予告ビラを撒き散らした。多くの市民が郊外の山中や田園地帯をめざして避難・疎開を始めた。青森県知事・金井元彦(元内務省・検閲課長)は、避難民に対して「7月28日までに青森市に帰らないと、町会台帳より削除し、配給物資を停止する」と通告。
 食糧配給停止は死を意味し、町会台帳から抹殺は「非国民」のレッテルを貼られ社会から抹殺される。多くの市民が、しぶしぶ予告期限の7月28日までに青森市内に戻ってきた。7月28日の夜、青森市上空に約100機の米軍B-29爆撃機が飛来し、574トンもの焼夷弾を投下した。大火災によって728人が死亡、280人が負傷し、1万5000軒のも建物が焼失。
青森空襲・・http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/38766069.html

「私には戦争というものが永久につづく冬のような天然現象であり、人間の力ではやめられないもののような気がしていた」(北山みね「人間の魂は滅びない」、『世界』1955年8月号)

米国の期待した民衆が戦争の終結を要求する動きは生じない。原爆実験・トリニティが成功すると、8月に入ったら天候が良い時にいつでも広島、小倉(北九州市小倉南区、小倉北区)、長崎、新潟に原爆を投下する戦略爆撃を指令する。

広島にウラン型核爆弾を8月6日に投下。しかし、日本政府は降伏しない。8月7日、日本の佐藤駐ソ大使が、連合国との和平仲介を求めてモロトフに面会を申し込んだ。日本は原爆を投下された後も降伏の意思はなく、ソビエトの調停に希望をつなでいた。

8月8日の日本時間午後11時、ソ連が対日宣戦布告を通告。1時間後、8月9日の日本時間午前零時、ソ連軍は対日作戦を発動。それから約11時間後、長崎にプルトニウム原爆投下。

1945年8月11日付の福岡県知事山田俊介「ソ聯の対日宣戦布告並びに新型爆弾に対する民心の動向に関する件」によれば、
「新型爆弾でも十四、五個投下せられたら日本全土灰じんだ。斯うなつては天命を待つより外方法はない。お互に逢つた時が別れだ」(農民芳野喜太郎)、
「電車の中等で『斯うなつては戦いは負け』と云ふ声を聞き一般に日ソ開戦により必勝の信念に亀裂を生じて来ている事が窺われます」(旧日本婦人会福岡支部長畑山静子)


memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 東京大空襲「火災旋風」(9) [原子力損害賠償制度]

 東京大空襲の火炎旋風

1944年6月から9月のマリアナ諸島の戦いで得た、飛行場からの日本本土への戦略空爆は1944年11月24日に始まった。ヘイウッド・ハルセン准将率いる第21爆撃軍で、米国の公式方針「精密爆撃」に従った爆撃を行った。連日のように工業地帯の航空機工場、特に航空機エンジン工場へを狙った高度8000m~10000mでの高高度昼間編隊による通常爆弾の爆撃を行った。しかし、その精度はドイツ戦で実証済みの“ばら撒き”。攻撃目標の工場よりも周辺の市民や民家の被害が大きく戦果は少ない。

 45年1月21日にハルセン准将は解任され、ドイツで無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将が着任する。彼は、陸上の物流の主役であった国鉄を始めとする鉄道網、炭田という産業構造の中枢(hub)を、主目的にした空爆は殆ど行っていない。航空軍参謀総長のローリス・ノースタッド少将は民家焼夷攻撃論者であり、少将の焼夷弾による無差別攻撃を命令に従って、無差別の焼夷弾空襲、焼殺(ホロコースト)を行った。まず、焼夷弾の効果を確かめる地域爆撃(area bombing、市街地域を面として攻撃)を、2月4日の神戸など行った。
 ルメイは都市工業地域に対する2000m程度の低高度夜間焼夷弾攻撃および中高度昼間攻撃法も併用することにした。3月中旬から6月15日までの、5大都市(東京、名古屋、横浜、神戸、大阪)への大量焼夷弾による地域爆撃を行った。3月10日の東京大空襲は、午前0時8分から空襲開始。高度1500~2800mの低高度夜間焼夷弾攻撃で最初は東京中心部下町を囲むような形で巨大な火の輪を作り上げた。次に、その火の輪の中に焼夷弾を投下した。1943年7月のハンブルグ空襲の再現、「火災旋風」炎を伴った竜巻の発生を狙った。空襲は午前2時半まで続き、火災は6時間続いた。
 26万8千戸が全焼又は半焼し、罹災人口100万人。逃げ場を絶たれた多くの人が焼き殺されたり、呼吸困難、一酸化炭素中毒で死亡、死者約10万人、負傷者4万人以上と推定されている。

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井上img_0.png 

 参照・・神戸空襲 http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/kushu/kushutop.html

 神戸など港湾への機雷投下が行われている。物資の流通、海運による物流を止める爆撃。神戸は6月5日の空襲で、焼け野原にし終えたので、目標リストからはずされることになる。
5大都市への焼夷弾、絨毯爆撃が6月上旬まで行われ「全市の四割前後」が焼失する。

流れ出る都市民 

【大都市に対する無差別絨毯爆撃が始められると「四大工業地域より無計画恣意的に各地方各府県に転流せるもの約八百万人」(六月一日現在)となり、地方に深刻な「食料問題、インフレ激化問題」を引き起こした。
しかも、この大量の罹災者、疎開者の移動と共に空襲被害に関する情報は全国へ広まっていった。他方、疎開のあてもなく罹災により壕舎生活を余儀なくされた人は東京都内で約六万七千世帯、二十二万七千人、横浜で約十万人、大阪九万人と推定された。】
(川島高峰、日本の敗戦と民衆意識、http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/haisen-minsyu.htm

戦略爆撃理論では、「最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられ戦争は長続きしない」空爆で民衆にパニックを起こせば自己保存の本能に突き動かされ戦争の終結を要求するようになる。ところが、そうした動きは見られない。
【東京の罹災者の戦意は低く、「敗北主義的厭戦的気運即ち『戦争に勝つても敗けてもこれ以下の生活に落ちることはない。敗けても勝つてもどうでもよい』と云ふが如き風潮を一部に醸成する処多分」】
【罹災地では「『スパイ』横行シアリトノ流言多発」し、「一般民心ノ不満対象ヲ『スパイ』視スル傾向」があった。国民の一部に特異言動ではあるが、「アンナニ東京ヲ焼イテ了ツテ天皇陛下モ糞モナイ戦ニ勝カラ我慢シロト言ヤカツテ百姓ハトツタ米モ自由ニナラヌ骨ヲ折ル丈ケタ」といった「『皇室ノ戦争責任』又ハ『皇室ノ生活様式ヲ羨望憶測』等ヲ云為スルカ如キ自棄的厭戦不敬造言ノ発生増加ノ傾向」が見られるようになった。】



語り伝える東京大空襲〈第3巻〉10万人が死んだ炎の夜 (ビジュアルブック)

語り伝える東京大空襲〈第3巻〉10万人が死んだ炎の夜 (ビジュアルブック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2010/11
  • メディア: 大型本



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