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米国海軍と原子力発電 リッコーヴァー提督とTMI事故 番外 [原子力損害賠償制度]

PWRの原子力発電所の生みの親

1954年1月に、実用で原爆・原子力爆弾以外に核分裂のエネルギーをつかう初めての道具ができました。米海軍の原子力潜水艦「ノーチラス号」です。 1946年にHyman George Rickover、ハイマン・リッコーヴァー大佐が立案しました。彼は連続63年間、原潜部門のトップにあり原子力潜水艦の開発、配備を推進した「Nuclear Navy(原子力海軍)の父」と称され、海軍大将にまで昇りました。
詳しくは http://hatake-eco-nuclear.blog.so-net.ne.jp/2014-07-07

この潜水艦では原子炉で取り出されたエネルギー、水蒸気は、大半が蒸気タービンでスクリューの回転力=推進になり、一部が発電機で艦内の電力になる設計です。これが陸上で水蒸気を全て発電機に廻して、PWR・加圧型軽水炉の原子力発電所が実用化されました。シッピングポート原発で1958年に運転を開始した世界初の商業用原発です。

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ハイマン・リッコーヴァー氏が烏賀陽弘道氏の「ヒロシマからフクシマへ」の第8章核エネルギーを潜水艦エンジンにした男で取り上げられていました。この本全体では武谷三男氏の「原発は安全だという人がやっていると危ない、危険だという人がやって、ようやく何とか危険が避けられる」という言を改めて強く感じました。

ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅

ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅

  • 作者: 烏賀陽弘道
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
特にリッコーヴァー氏で強く実感しました。烏賀陽氏は「リコーバー」と表記されている。
第8章から抜き書きと覚え書き
168頁
ノーチラス号が完成したのは1954年1月。・・1953年12月の「核の平和利用=原子力発電を同盟国に供与する」という外交政策は、PWR型原子炉の実用化のめどがたったからこそ可能だった。
オブニンスク(2).jpgmemo・・1954年6月27日(日曜日)に世界最初の原子力発電所、ソビエト・ロシアのオブニンスクが運転を開始した。原子炉は黒鉛減速・水冷却
1956年10月に英国のGCR1号機運転を開始、GCRは黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉。
1958年に、リコーバーのシッピングポート原発で運転を開始。「世界初の商業用原発」。
商業用というのがミソ
核分裂エネルギーによる発電は、1948年9月に米国のX-10原子炉。本書の111頁、155頁。
本格的な原子力発電所はソビエト・ロシアに先を越されたし、、、
英国が先にやりそうだ。
この二つは、国営だ。そうだ、民間で採算がとれる安価だというので差別化という米国の情報戦略が「商業用」との冠

170頁(以下略)
乗組員の養成コースも自分で編成した。Naval Reactors Program という。海軍で最高位の階級に上り詰めても、原子力潜水艦に乗り組む士官は必ず自分で面接して、少しでも納得がいかないと合格させなかった。その数は1万4000人に上る。
174
海軍で原子炉の訓練を受けた乗組員たちが退役したあとの最大の就職先が原子力発電所だった。士官たちは退役して政治やビジネスの世界にも進出した。リコーバーはそんな「アメリカの原子力ムラ」から「オヤジ」("the Old Man""the Old Guy")と呼ばれた。

memo・・日本では原子力発電産業や電力会社の中だけで人材の育成から就職の輪が閉じられている。
173
原子力潜水艦は、世界大戦ともなれば人類を滅亡させることができる核ミサイルを積んで水に潜る。戦闘になれば、全速力で動き、曲がりながら原子炉を運転しなければならない。機雷や魚雷を撃ち込まれても原子炉を運転できなくてはいけない。
 万一ワシントンや司令部との通信が途絶した場合は、ミサイルを発射するかどうかを乗り組み士官が独力で判断しなければならない。大学院レベルの原子力工学の知識だけでなく、冷静沈着な人間性があるかどうか。強靭な理性があるか。複雑な状況から行動を決める思考力があるか。それが確かめらなければ、リコーバーは乗り組みを許さなかった。

 リコーバーは人間と核技術の関係について、醒めた考え方を持っていた。人間はミスをする。機械は壊れる。予想外の事態が起きる。ひとたび起きれば、結果は甚大である。
「最高に訓練されたスタッフ。最高に整備された機器。最高に磨かれた操作基準があっても、ミスを許容できる余裕が設計に入っていなければならない。」
 それが持論だった。
 原子炉の安全設計には二重、三重の対策を求めた。
 電力会社が所有・運用していたショッピンポート原発にも、海軍の自分の部下を常駐させ点検させるよう主張して譲らなかった。
 「所得税を本人の自己申告だけにさせて検査を入れなければ、正しい申告などしないだろう。それと同じだ。人間の本質と矛盾するのだ。」
 それが理由だった。
176
スリーマイル島(TMI)原発で事故が発生した時、カーターが原因究明に熱心だった理由には、こうした原子炉工学や原子炉事故の経験がある。海軍は政界や実業界に核技術の知識がある人材を送り出しているのだ。
 TMI事故から2か月たった1979年5月27日、カーターは家族を連れてお忍びでワシントン郊外のリコーバーのアパートを訪ねた。・・大統領特別事故調査委員会(ケメニー報告)の内容と結論をどう見るか、個人的なレポートを書いてくれないかと依頼したのだ。カーターはかつての上官が核について楽観論者でもなければ悲観論者でもない、現実主義者あることを知っていた。そして海軍の潜水艦は原子炉事故ゼロを続けていた。
 半年後、リコーバーは報告書を批判する個人的なレポートをホワイトハウスに届けた。
「NRC(原子力規制委員会)をいくら拡充・強化しても、安全性の向上につながらない」
「安全性の向上には訓練しかない」それが大意だった。
177
 「私がリコーバー提督から聞いた言葉で忘れられない言葉が一つある。かつて一緒に潜水艦に乗ったときに彼は『核爆弾なんて発明されなければよかった』『原子力なんてなければよかった』と言った。私は驚いて『提督、原子力はあなたのじんせいじゃないですか』と言った。『いや』。提督は言った。『もし核兵器の誕生を防げるのなら、私の生涯の業績を手放したって構わない。船のエンジンだろうと、医療用放射線だろうと原子力発電であろうと、原爆を無くせるなら喜んで手放す』」(CBS 『60 Minutes』ダイアン・ソイヤーのインタビューでのカーター発言)
「放射能が出れば、時には半減期が数億年かかる物質だって出てくる。人類はそのせいで破滅してしまうかもしれない。この恐ろしい力をコントロールして、消し去ってしまうように努力しなけばならない。」(1982年、議会公聴会でのリコーバー証言)
 1986年になって公表された義理の娘のジェーンの証言によると、リコーバーはこう言っていたという。
 「TMI原発事故の調査報告書が全部公開されてしまったら、これまで公表されていたより事故がずっと危険な状態だったとわかってしまうだろう。そうなれば、民間の原子力発電産業は壊滅的な打撃を受ける。そうならないように、あらゆる人脈を動員してカーター大統領に報告書の『上澄み』の部分だけを公表するように説得した。」「しかし、報告書の警告を発していた部分が公表されないようにしたことを、父は深く後悔していた。」
「もし放射能が大気に放出されるなら、原子力など価値はない。『じゃあ、何故原子力エンジンの艦船などつくったのだ』と思うだろう。必要悪だからだ。今すぐ艦船全部沈めても惜しくない。私は自分が果たした役割を決して誇りに思っていない。この国の安全にとって必要だから任務を果たしたのだ。私が戦争のバカバカしさに全力で反対する理由はそれだ。戦争を防ごうとする試みはことごとく失敗してきた。歴史を紐解けば『戦争になれば、どんな国でも最後は使える武器は何でも使う』がその教訓だ」(1982年、議会公聴会でのリコーバー証言)

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