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memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 戦争が永久につづく冬のような天然現象に思えた(10) [原子力損害賠償制度]

 鬼畜米英の焼夷弾焼殺(ホロコースト)と皇国の玉砕決戦の狭間で

米英の戦略爆撃の無差別空襲を受けたドイツと日本では、理論が想定する民衆が戦争の終結を要求する事、クーデタや革命は起こっていない。
日本の国民義勇隊
 ドイツは国民突撃隊(ドイツ市民軍:Deutscher Volkssturm)を、44年9月25日、連合軍のパリ解放の一ケ月後に組織した。約600万人をドイツ全土を42に分割した地方隊の指揮下に置き、警備と居住地区の防衛戦闘に当てた。
 日本政府は1945年(昭和20年)3月23日、「国民義勇隊組織」を閣議決定し6月に大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会などを吸収・統合し創設した。この義勇隊は、本土決戦に向けた国民の組織化への第一歩であり、本土決戦に際しては全国規模の指揮系統はなく、「軍管区司令官、鎮守府司令長官、警備府司令長官ノ命令ニ依ル」ゲリラ的戦闘を想定していた。

米国は、6月17日以降は、各地の中小都市が焼夷弾、無差別空襲攻撃の対象とした。「中小都市に於ては一夜にして其の八割内外の戸数」が焼失した。広島、小倉(北九州市小倉南区、小倉北区)、長崎、新潟は原爆投下地に選定されいたので、この空襲からは外された。この時期でも、陸上の物流の主役であった国鉄を始めとする鉄道網、炭田という産業構造の中枢(hub)を、主目的にした空爆は殆ど行っていない。航空軍本部の無差別攻撃の命令に従って、無差別の焼夷弾空襲、焼殺(ホロコースト)を行った。空襲による死傷者は約102万人、その半分が死亡者と言われる。

44年7月のサイパン玉砕の際に、日本政府はアメリカ人が「男も女も残忍に陶酔」するような国民であり「負ければ一億がペン軸」にされるといった「おどし」を国民に行った。米軍の3月中旬からの無差別の焼夷弾空襲は、米軍は残虐、鬼畜米英の日本政府の宣伝を、真実と思わせたであろう。

 日本政府は、6月23日に義勇兵役法を公布し、国民義勇隊から「国民義勇戦闘隊」が編成された。約2800万人の義勇兵役は通常の兵役と同じく法的義務であり、召集に応じなければ刑事罰の対象となった。戦時国際法上の戦闘員資格を確保するため、隊員は布製徽章(きしょう)を身に付け、指揮をとる職員は腕章により標識するものとされた。

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内務省警保局「沖縄島失陥に伴ふ民心の動向」によれば、6月25日沖縄の玉砕が発表されたが、「予想に反して格別の反響も示し居らず」、「諦観的放心的症状を払拭せず国民の驚くべき無気魄さは愈々一般化し膠着化し」、「極めて顕著なる敗戦観一色に塗りつぶされたる」。

無差別の焼夷弾空襲という残虐な鬼畜米英と義勇戦闘隊という玉砕・必死(必ず死ぬ)を迫る自国政府との狭間で国民は、思考は停止状態にならざるを得ない、「諦観的放心的症状」になっている

青森市、7月20日頃から、上空に飛来した米軍機が「伝単」、数日中に青森を含む11都市の都市を爆撃するの空襲予告ビラを撒き散らした。多くの市民が郊外の山中や田園地帯をめざして避難・疎開を始めた。青森県知事・金井元彦(元内務省・検閲課長)は、避難民に対して「7月28日までに青森市に帰らないと、町会台帳より削除し、配給物資を停止する」と通告。
 食糧配給停止は死を意味し、町会台帳から抹殺は「非国民」のレッテルを貼られ社会から抹殺される。多くの市民が、しぶしぶ予告期限の7月28日までに青森市内に戻ってきた。7月28日の夜、青森市上空に約100機の米軍B-29爆撃機が飛来し、574トンもの焼夷弾を投下した。大火災によって728人が死亡、280人が負傷し、1万5000軒のも建物が焼失。
青森空襲・・http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/38766069.html

「私には戦争というものが永久につづく冬のような天然現象であり、人間の力ではやめられないもののような気がしていた」(北山みね「人間の魂は滅びない」、『世界』1955年8月号)

米国の期待した民衆が戦争の終結を要求する動きは生じない。原爆実験・トリニティが成功すると、8月に入ったら天候が良い時にいつでも広島、小倉(北九州市小倉南区、小倉北区)、長崎、新潟に原爆を投下する戦略爆撃を指令する。

広島にウラン型核爆弾を8月6日に投下。しかし、日本政府は降伏しない。8月7日、日本の佐藤駐ソ大使が、連合国との和平仲介を求めてモロトフに面会を申し込んだ。日本は原爆を投下された後も降伏の意思はなく、ソビエトの調停に希望をつなでいた。

8月8日の日本時間午後11時、ソ連が対日宣戦布告を通告。1時間後、8月9日の日本時間午前零時、ソ連軍は対日作戦を発動。それから約11時間後、長崎にプルトニウム原爆投下。

1945年8月11日付の福岡県知事山田俊介「ソ聯の対日宣戦布告並びに新型爆弾に対する民心の動向に関する件」によれば、
「新型爆弾でも十四、五個投下せられたら日本全土灰じんだ。斯うなつては天命を待つより外方法はない。お互に逢つた時が別れだ」(農民芳野喜太郎)、
「電車の中等で『斯うなつては戦いは負け』と云ふ声を聞き一般に日ソ開戦により必勝の信念に亀裂を生じて来ている事が窺われます」(旧日本婦人会福岡支部長畑山静子)


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