SSブログ

最高裁研究会での東電核災害などのH24資料 [核のガバナンス・裁判]

 平成25年2月12日の最高裁事務局主催の特別研究会(複雑困難訴訟)の議論の取り纏めの抜書き
court_004-001.jpg 講師 大学大学院教授 2名
     弁護士
     法務省大臣官房審議官 中山 孝雄
     新聞社論副委員長

 ここから入手
NPO法人(特定非営利活動法人)
情報公開クリアリングハウス
http://clearinghouse.main.jp/wp/

第1問 原発訴訟等関係
 1福島第一原発事故発生後の諸情勢の動きが、原発関連訴訟に係る裁判所の審理運営や判断の在り方に及ぼす影響について【提出問題1~3】
 ○ 行政訴訟における判断枠組み等
(1)原子炉設置許可取消訴訟等の行政訴訟における従前の判断枠組みについてどのように考えるか。裁判所の審理の内容ばどのようになるか。【提出問題1】
(講師)福島第一原発事故は起こるべくして起こった事故である、という現実からまず出発すべ きである。また、原発事故は一度起きたら取り返しがつかない事態になる一方で、原発を 止めても当面取り返しのつかない事態にはならない。安全性が確保されていない原発の原 子炉設置許可を取り消しても、新しい基準に基づいて審査をやり直せばよく、原発がなく なるわけではない。国や電力会社がやっていることだから、あるいは、専門家が言ってい ることだから間違いないだろうとか、3人の裁判官では国家施策に関わる判断をしかねる といった、行政裁量論や専門裁量論の根底比あると思われる潜在意識は、少なくとも原発 に関しては払拭されてしかるべきではないか。

 こういう観点から伊方原発訴訟の最高裁判決(以下「伊方原発最判」という。)を見直してみると、災害が万が一にも起こらないようにするという観点からまずは行政庁が不合理な点のないことを相当の根拠資料に基づき主張立証する、尽くさない場合には不合理な点があることが事実上推定される、という議論には、改めて価値が出てきたと思う。ただ、今回の一連の事態を踏まえてみるならば、当時の原子力委員会の専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の公益的判断に委ねるというような大幅な行政裁量や、審査対象を基本設計に限定するという判断は、見直しがされるべきであると思う。

(講師)福島第一原発事故が起きたこと等を契機として、処分庁に対する社会的な信頼が失われたから、処分庁の専門技術的裁量を狭くすべきであるとか、裁判所の審査密度を高めるべきだといった意見が出てきているが、伊方原発最判が示した、専門技術的裁量を前提とする裁量統制型の判断手法自体は維持されるべきである。なぜなら、処分庁に専門技術的裁量が与えられていることや、それを前提に裁判所がどういう司法審査の在り方を採るべきかは、原子炉等規制法という実定法の解釈から導かれる事柄だからである。法律の基本的な仕組みが変わらないにもかかわらず、その解釈が変わるというのは相当ではない。

では何が変わる可能性があるのかというと、東日本大震災と福島第一原発事故の発生により得られた様々な教訓や知見の中には、伊方原発最判がいうところの「現在の科学技術水準」の一部を形成するものがあるということである。そこで、今後は、それらを含む現在の科学的水準に照らして、基本設計の安全性について、審査に用いられた具体的審査基準に不合理な点がないか、あるいは、具体的審査基準適合性の判断過程に著しい過誤欠落があったかどうかが判断されることになる。ただ、留意すべきことは、裁判所が依拠すべき科学技術水準は、あくまでも国際的に確立された基準ないし誰からも支持されるような科学的知見又は経験則でなければならないということである。そして、このような基準や経験則等が確立されるためには、慎重な検討作業を要し、時間もかかる。また、福島第一原発事故があったからといって、そこで得られた知見等が、立地条件や地形等の異なる各地の原発全てに当てはまるわけではなく、全国一律に結論が出るというものでもない。そういう意味で、裁判所は、科学的知見については、何が確立されたものなのかを慎重に把握した上で、処分行政庁の判断に不合理な点がないか否かを検討する必要があると思う。

(講師)伊方原発最判で示された司法審査の在り方は、当時の原子力委員会といった専門機関の判断に基づいているということを理由にして、裁判所は行政庁の判断をある程度は尊重する、しかし、広い裁量というものまでは認めない、というものであるが、この考え方は学界でも比較的支持されており、私自身も基本的には支持してよいと考えている。したがって、司法審査の方法として、まず行政庁の側が判断の合理性に関する主張立証をし、その上で、裁判所が行政庁の示した判断過程に沿って、安全審査基準の合理性とその基準のあてはめの合理性をチェックするという方法の大枠は、維持してもよいのではないか。ただ、どこまでの異常事態を想定するかという具体的な判断のレベルにおいて、福島第一原発事故が発生したことを踏まえると、行政庁の側が「これを想定から外す」という場合にはより丁寧な説明が要求されるようになり、裁判所としても、どこまでの事態を想定するかということについては慎重に判断する必要が出てきたと思う。

 また、伊方原発最判は、原子炉設置許可取消訴訟の審査の対象はあくまでも基本設計に限られ、その後の工事方法の認可等の手続で審査されるいわゆる詳細設計については審査の対象から除かれるという判断をしている。解釈論の大枠としては支持できるが、法令上、基本設計について定めているわけではない。これについても一定程度行政庁の判断を尊重するのがもんじゅ訴訟の最高裁判決であるが、それを前提にしても、基本設計と詳細設計の合理性の判断はそれほど明確に分かれるものではないのではないかと思う。
 さらに、伊方原発最判のポイントは、「現在の科学技術水準に照らし」という部分である。この点は、まさに現時点で極めて重要な意味を持っているのではないか。

(講師) 以前から、原発関連訴訟はメディアにとっては大きな取材テーマであり、原発に関するスタンスはメディアごとに違いがあったが、福島第一原発事故の後、この報道姿勢の違いがより顕著になってきている。ただ、原発を今後も維持活用していこうという立場であっても、福島第一原発事故の後は、安全が確保されていない原発を動かすことは許されない、ということは間違いなく言えるのではないか。その意味で、福島第一原発事故が起きてしまった現在、原子力規制委員会で策定中の安全基準を従来のものよりも厳しいものにしなくてはならないのは当然だと思っている。しかし、そのことと、いざ訴訟が起きたときの裁判所の役割というのは分けて考える必要がある。この安全基準に照らして設置許可が妥当かどうかという判断には、極めて高度な科学的技術的知見が必要であることを踏まえると、伊方原発最判が示した抑制的なスタンスは、現実的で妥当なものなのではないかと思う。原発政策は国のエネルギー政策の根幹に関わるものであり、高度な政治問題でもある。原発の設置許可についても、専門的知見を持たない裁判所が独自の基準等を用いて様々な司法判断を示せば、国のエネルギー政策に大きな混乱をもたらすおそれがある。したがって、最高裁が示したスタンスは、福島第一原発事故があった後であっても変わるべきではないと思う。

 メディアによっては、なぜもっと裁判所が踏み込んで判断しないのか、と批判するところもあると思うが、それは、原発に対する基本的スタンスの違いも一つの要因だろう。国民の間にも、裁判所に対してどこまで求めるかについては、様々な意見があり、難しいテーマだと思う。

(研究・裁判官) 基本的には伊方原発最判の判断枠組みに従って今後も判断していくことになると思う。ただ、事故を受けて、科学的知見にづいて現在見直しがされているところであり、それを踏まえて判断していくことになるだろうし、その審査について、裁判所は、これまでの判断枠組みは維持しつつ、今まで以上に丁寧な説明が求められるのではないか。

(研究・裁判官) 伊方原発最判の枠組みで判断することに賛成である。しかし、専門家の判断を尊重するということについて、かつて原子力安全・保安院(以下「保安院」という。)の審査、判断があったわけだが、保安院が抑制的で、きちんと規制がされたのかについては疑問視されたところがある。その後、原子力規制委員会が設置され、同委員会において新たな安全基準を策定した上で、その当てはめも行っていくことになるが、同委員会の判断に対しては、裁判所としてはどういう姿勢で臨めばいいのか。専門機関が行ったのだから、主管省庁が専門的判断をしたのだからというごとで一定の合理性があるという前提で臨むべきなのか、それとも、保安院の反省に立って、そこに対してはもう少し慎重になるべきなのか。


(講師) 原子力規制委員会は、原子力規制委員会設置法1条において、「確立された国際的な基準」を踏まえて安全の確保を図る等の事務を行う組織として位置づけられている。同委員会はいわゆる3条委員会で、行政機関の中でも特に中立性や公正さが求められる機関であり、従前の保安院とは質的に異なっている。現に、原子力規制委員会は相当シビアな目で原発を見ていると感じる。このような向委員会の性格を考えると、同委員会が策定する基準は、確立された国際的基準を踏まえたものになると思われるので、それが司法審査の場において当然に絶対的な基準になるものではないと考えるが、その専門的判断を尊重し、それに不合理な点がないか否かという視点で審査する姿勢が必要ではないか。

(講師) 私は、上記意見とは異なり、原子力規制委員会の策定する基準やその当てはめを尊重すべきだとは思わない。裁判所がどのような観点で審査するかということが大事なのであり、例えば、基準の審査に当たって必要な情報はきちんと提供がされていたのか、委員会が公正な人選によって構成されていたのか、あるいは、委員会で出された異なる意見のうちいずれかを採った場合に、それが少数意見や反対意見に照らして合理的な判断といえるのかどうか、といった観点からも、丁寧な説明あるいは慎重な審査がされるべきではないかと思っている。

(講師) 伊方原発最判が行政庁の判断をある程度尊重すべきとしたのは、専門的中立的機関が行った判断が基礎になったものであるからということだったと思う。つまり、専門技術的裁量を認めるためには手続、組織がきちんとしているということが求められる。今回原子力規制委員会が設けられて、ある意味では初めて伊方原発最判の枠組みが本当に妥当するようになったということではないか。

  また、「裁量」という言葉を私も使っているが、伊方原発最判自体は「裁量」という言葉は意図的に使っていない。政策的な裁量のように非常に幅があるような裁量を想定しているのではなくて、あくまでまず行政庁の説明を基礎にして審理しましょうということがあの判決の一番のポイントだったのではないか。その意味では、行政庁に丁寧な説明を求め、裁判所もそれに対して丁寧に判決をするということによって、伊方原発最判がまさに生かされるということではないかと思う。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0