SSブログ
原爆被爆者援護法 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

LSS寿命調査と原爆医療法 めも原爆被曝者手帳㊹-Ⓐ [原爆被爆者援護法]

心配された受診率の低下
LSS寿命調査の対象・サンプルは1955年から選抜が始まった。
こうした疫学「調査に選ばれた人々のうらかなり多数の人々が受診を拒否した場合にはその統計学的妥当性は失なわれる」「受診率は50-60%であって,このような低い率では」統計的な有意性、意味ある結果とは言えなくなる。それで1956年当時は「如何にして受診率の減少を最低許容範囲内に止めておくかが最大の関心事であった」(成人健康調査AHSの第1回目の報告書5-6頁)

無料の健康検査の法制度、原爆医療法
そこに、1957昭和32年4月に、被爆者健康手帳の交付を受けた人に対する無料の健康診断(年2回・定期)と認定疾病に対する医療の給付を実施することを内容とする「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法、昭和32年法律第41号)が施行された。原爆医療法の健康診断とLSS寿命調査のAHS健康調査をリンクさせたり、受診者の両者の混同を正さない様にすれば、かなり多数の人々がAHS受診する/しただろうと思われる。
手帳の交付は
長崎では
当時の長崎市内全域 下図
西彼杵郡福田村のうち大浦郷、小浦郷、本村郷、小江郷、小江原郷(半島の西側)
西彼杵郡長与村のうち高田郷、吉音無郷(北側)
広島では
当時の広島市内全域 下図
安芸郡戸坂村のうち狐爪木(北東5.2km)
安芸郡中山村のうち中、落久保、北平原、西平原、寄田(東北東~5km)
安芸郡府中町のうち茂陰北(東4.5km)

黒い雨被爆者は除く
宇田雨域の地域、爆心から北西方向は除かれている。LSS寿命調査の歪み、虚構を受け継いでいる。制度的法的に初期放射線だけが被曝させたという歪んだ、誤った認識を社会的に刷り込んでいる。

旧廣島市_.jpg
旧長崎市_.jpg

「黒い雨」被爆者はLSS寿命調査では被曝線量を過小評価 めも原爆被曝者手帳㊸ーⒷ [原爆被爆者援護法]

宇田道隆氏が1947昭和22年に発表した「原子爆彈による廣島の氣象異變」には黒い雨に関して次のように書かれている。 http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/maincollection/uda-bunko/resources/pdfs/gyouseki/029.pdf
雨域
「爆発後に廣島市上に起つた黒雲と黒煙は共に北西方向に流れ動いて黒雨を降らし黒塵灰を降らした」3頁
「雨の分布は爆心より北西方に引いた線に對し非對稱で著しくその北側に偏倚し、」「降雨域は長徑二九粁、短徑一五粁の長卵形をなして爆心地附近より發して遠く北西方山間域に及んでをり、一時間乃至それ以上も繼續した相當激しい降域は長徑一九粁、短徑一一粁の楕圓形乃至長卵形を示してゐる。」4頁
黒煙、黒塵灰
「生存者につき調べた所、爆心より二粁(㎞)以内の圏内では光って直ぐ建物土壁などが倒壊し、塵埃(じんあい)が黒煙のやうに一時に四方に立つて急に周りが夕闇乃至日蝕時位の暗さになり、それが晴れて明るくなるまで三〇分を要した。原子症のひどい『ガスを呑んだ」といはれる者の『ガス』は恐らく高放射能をもつ有毒な黒塵の立つたものを指すであろう。」「従つて爆發して火光が擴つた殆んど同時に市の中心部2粁以内圏内より黒塵煙が立ち昇つて全市上を蔽ひ、それが續いて生じた雨で洗ひ落とされ市西方部の黒雨現象と気流に運ばれ黒塵降下現象の因をなした。」3頁
「雨水は爆心地帯から昇騰(しょうとう)した黒塵灰に一部爆發物の空中に飛散した残片を加えた塵を含有するため、墨汁のやうに黒かつた。この雨水中の泥分を儉査すると(高須)、二ケ月後で爆心地に數倍する高放射能を有することが判明した。(理研調査班佐々木、宮崎両氏の測定教示による。)即ちこの爆發による高放射能微粒子が上空中を浮遊し南東気流に運ばれ行くうちに連続的に豪雨に洗滌され(一~二時間の洗滌により黒雨は白雨に變つた)落下したものであらう。」(高須は第2図に己斐(こい)駅とある地点の南西側)「この黒い雨水は生理的な毒性を有し、河川や池沼の鯉、鰻(うなぎ)、鮠(はや)などを斃死浮上せしめ、飲んだ牛や人も下痢を起こした。」「泥雨後田の螟虫(めいちゅう、特にニカメイガ・サンカメイガの幼虫。イネの葉鞘や茎の内部を食う)が一掃され焼損されなかった稲には特殊肥効を與へたように異常生育を示してゐたが颱風々水害ですつかりやられた。」4頁
飛撤降下物 乾性沈着
「 細かい黒塵灰(放射性微粒子を含む)、廣島市中央官廳、銀行、會社、郵便局等より無数の紙片(紙幣、債券などを含む)のやうな輕いものから、屋根のツギ板、焼トタン板片、綿布、蚊帳片、蒲團、綿片などやゝ重いものまで市中央部(徑一粁以内)から上昇して上層の南東気流に運ばれ、廣島市北西の山岳地方に三〇粁の遠方まで飛撤降下した。」「「降下は概ね降雨前から始まつて降雨中にかけて起り」「降下物の分布域は雨域より廣く且爆心から北西に引いた軸線の南西方に偏倚して多い。」5頁

分布の図(第3図)を抜粋して示す。爆心地を赤★で加筆した。
爆心から9999m以内を範囲とするLSS寿命調査よりも、原爆で生じた放射性微粒子が湿性沈着(雨)と乾性沈着した地域、地理的範囲ははるかに広い。だから2種類の被曝者は、LSS寿命調査では被曝線量が過小になるし、そもそも調査対象から除かれている。一つは、Ⓓ初期放射線の被曝が無視できる線量で、湿性沈着した放射性微粒子からの放射線による被曝の人々。DS02を基にして初期放射線で1mGy以下になる3500m以遠の地で爆発に遭遇し、黒い雨があった地域の人々など。一つは、Ⓔ初期放射線の被曝が無視できる線量で、乾性沈着した放射性微粒子からの放射線による被曝の人々。

宇田・原子爆彈による廣島の氣象異變029-05s.jpg

宇田雨域とLSS寿命調査の範囲地域 めも原爆被曝者手帳㊸-Ⓐ [原爆被爆者援護法]

原爆爆発後に大気中に拡散した放射性微粒子の降下・沈着は、LSS開始当初でも次の事は調査し、研究に反映することは出来たろう。一つは湿性沈着である降雨の範囲の調査である。特に放射化物質が含まれていた火災の噴煙で黒くなった雨滴「黒い雨」などの降雨範囲と降雨時間などを調査して明らかにする。これは逆に乾性沈着だけが考えられる地域を割り出す、炙り出すことになる。

宇田雨域
敗戦後、広島長崎の原爆被害の研究などの発表は、GHQ連合軍最高司令部によって制限されていた。広島管区気象台は1945昭和20年8月から12月にかけて住民への聞き取り調査を実施したが、その結果は発表できなかった。1946昭和21年12月7日に制限が廃され公表解禁。翌年、気象台は「廣島原子爆弾被害調査報告(気象関係)」を発行。気象台の宇田道隆氏が「天氣と氣候」誌に「原子爆彈による廣島の氣象異變」を発表した。 http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/maincollection/uda-bunko/resources/pdfs/gyouseki/029.pdf
それには「爆発後に廣島市上に起つた黒雲と黒煙は共に北西方向に流れ動いて黒雨を降らし黒塵灰を降らした」3頁「雨水は爆心地帯から昇騰した黒塵灰に一部爆發物の空中に飛散した残片を加えた塵を含有するため、墨汁のやうに黒かつた。この雨水中の泥分を儉査すると(高須)、二ケ月後で爆心地に數倍する高放射能を有することが判明した。(理研調査班佐々木、宮崎両氏の測定教示による。)即ちこの爆發による高放射能微粒子が上空中を浮遊し南東気流に運ばれ行くうちに連続的に豪雨に洗滌され(一~二時間の洗滌により黒雨は白雨に變つた)落下したものであらう。」4頁とある。
降雨のあった地域、通称「宇田雨域」の図がある。下図には 赤★で爆心地、○で2㎞圏を加筆挿入した。

この気象台の調査報告は日本学術会議の「原子爆弾災害調査報告書」で1953年に公表されている。
参照 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001xvsr-att/2r9852000001xvy9.pdf
幻想の上のLSS
さらにDS02による初期放射線の被曝線量の分布図を示す。
両図を較べると、LSS寿命調査の調査対象者は、湿性沈着した放射能「黒い雨」浴びて、それからの被曝を受けたであろう人々が大半(約五分の三位?)である。LSS寿命調査の「総被曝した放射線はほとんど初期放射線と誘導放射線で、総被曝線量≒初期被曝線量」との想定が、現実離れした幻とわかる。

宇田・原子爆彈による廣島の氣象異變029-03.jpg
ほうえいけんbriefdescript_j07広島.jpg

残留放射能、残留放射線被曝で放影研RERFは言い逃れ? めも原爆被曝者手帳㊷ [原爆被爆者援護法]

被曝は残留放射能、残留放射線があるからゼロにはならない。
思考実験してみよう。その日の朝、爆心から南に10kmほど離れた広島湾に一艘の漁船が浮かんでいた。原爆の閃光が光り爆風にもまれたが、なんとか持ちこたえて江田島の港に向かった。乗組員たちは、燃え上がる市内の有様に呆然とした。やがて空からパラパラと雨が落ちてきた。頭や手足や着衣を濡らした。水瓶の中にも入り込んだが、渇いた喉には水は美味かった。雨滴は原爆の残留放射能を核に水中の水蒸気が集まって出来ていた。さて、この乗組員らは被曝しなっかただろうか。増田氏は爆心から南側の江田島向側や呉,約30kmはなれた倉橋島袋内などでの降雨を報告している。
江田島_題.jpg
残留放射能、残留放射線でも障害は起きる
1954年3月1日にビキニ環礁でおこなわれた水爆実験(3F水爆)の危険海域外にいた第五福竜丸の乗組員らに降ったのは、破砕されたサンゴ礁だった。爆心地より160キロ東方の海上で突如西に閃光を見たのだから、水爆の初期放射線による被曝は無かったといえる。初期放射線被曝はゼロである。3F水爆のサンゴ礁破砕物に混じった付着した残留放射能の出す放射線で被曝しただけである。被曝線量は個人により異なるが全身線量で最低1.7Gy(1.7Sv)最大6.9Gy(6.9Sv)と評価された。そして、急性症状の火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛などを呈し、帰港後に「急性放射線症」と診断された。
広島長崎原爆は規模が小さいので残留放射能や残留放射線の量は少ないから、全員が確定的影響の急性症状を呈さないだろうが、被曝線量に応じて発症頻度が高まる確率的影響、発癌は起こりうるだろう。
放影研RERFは言い逃れ?
放影研RERFは「『残留放射線』の推定に必要な情報の入手はほとんど不可能に近い」としている。しかし「『残留放射線』のうち『誘導放射線』に関しては、実測値やそれを補完する計算方法などにより、およその環境中放射線量の時間・地理分布が判明している」という。これは、中性子線照射で生成する放射化物質が誘導放射線の線源だからである。生成後の爆風や火災などで飛散した分は、その地点では減るが「実測値やそれを補完する計算方法などにより、およその環境中放射線量の時間・地理分布が判明している」というのだ。
「『残留放射線』のうち大気中に拡散した放射性微粒子の場合には、降下後の地理分布が一様でないことに加え、地表降下後の風や地表水による再移動の結果、分布が更に複雑になる。」大気中に拡散した放射性微粒子は、生成後に飛散した放射化物質と核分裂生成物FP。
LSS開始当時、1955年当時でも放射性微粒子が何処に、地理的に何処に、降下・沈着したかは、研究され報告されていた。湿性沈着≒雨の降雨地域は、1945年12月には広島気象台の宇田道隆氏がに纏めた通称「宇田雨域」で明らかであった。今日では、最初の降下・沈着の分布は、シュミュレーションで3.11核災害でのSPEEDIでわかるように、より精密に明らかにできると考える。「地表降下後の風や地表水による再移動」による分布は難しいだろうが、最初の降下・沈着の分布はより精密に明らかにできると考える。放影研RERFは、やれたことやれることをしていない。

放影研RERFの荷重吸収結腸線量(単位はグレイGy)って何だ? めも原爆被曝者手帳㊶ー⒝ [原爆被爆者援護法]

原爆爆発時に地上にγ 線と中性子線が到達した。中性子線は、同じ電離放射線エネルギー量であってもγ 線よりも人体・生物組織への作用が強い。γ線は極短波長・高周波数の電磁波、光の一種。中性子線は、質量の有る中性子の飛翔だ。バッターボックスで受ける歓声とデットボールの違いがある。
人体組織(物質)が吸収した電離放射線エネルギー(単位はグレイGy、1Gy=1J/kg・ジュール/キログラム)が同じでも、生物組織への影響、作用が異なる。1931年には165keV X線を基準にとり生物学的効果比RBEという係数で差異を表すこととする考えが出された。RBEは通常は1~2桁の丸めない数値である。放射線を浴びて起こる「障害の大きさ」を、浴びた放射線の量にRBEを乗じた数値で示す考えが提案された。この数値を線量と名付けた。
1953年、ICRPは線量としてRBE線量(単位レム)を定義した。そして、RBEの数値としては実用上1、1.7、2、10、20などを与えた。1962年にICRP はRBE線量を、傷害から防護・放射線防護の分野では線質係数(QF:quality factor)に改めて使用するとした。ICRP1990年勧告においてICRPはQFを「放射線荷重係数 WR:radiation weighting factor)」と改称した。
このように「放射線荷重係数 WR」は起こる障害の大きさという計量ができないアバウトな概念を、アバウトに大づかみに示した係数である。放射線被曝で起こる障害には、確率的影響と確定的影響があると云われている。確率的影響を扱う分野では、吸収電離放射線エネルギーの吸収線量(absorbed dose 単位はGy)に放射線荷重係数を乗じた線量を等価線量(equivalent dose 単位はSv)として扱う。確定的影響では吸収線量(absorbed dose)に放射線荷重係数を乗じた線量を臓器吸収線量(Organ absorbed dose? 人体やその臓器の吸収線量、単位はGy)として扱う。
放射線荷重係数は、現在は下図。

01.gif

放影研RERFでは、中性子の荷重係数として10を用いている。「例えば、結腸に届いた放射線として、γ線1Gyと中性子線0.1Gyが含まれていたとすると、荷重吸収結腸線量(Gy)=1+0.1×10=2となる。(「要覧」42頁)」放影研RERFは等価線量(Svで表記)と同じだというが、Gyと表記すると確定的影響の臓器吸収線量(Gyで表記)と紛らわしい。LSSは原爆被爆の晩発性障害・影響を調べている。晩発性の身体的影響(白血病と固形がん)や子孫に伝わる遺伝的影響は確率的影響である。だから、被曝線量は等価線量(Svで表記)で表すべきである。確率的影響にしきい(閾、敷居)線量はない。(閾、敷居は境目を意味する。)
Gyで表記されると、しきい(閾)値がある確定的影響の被曝線量と誤認されやすい。「しきい値より小さい被ばく線量では影響は現れない。しきい値を超えて被ばく線量が増加するとともに影響の発生確率が急速に増加し、また、影響の程度すなわち重篤度も増大する。ある被ばく線量に達すると被ばくしたすべての人に影響が現れる。」「しきい値は、「臨床診断において、組織維持の要である細胞集団に放射線損傷(大きな機能不全又は細胞死)の症状を認め得る最小線量である。」(ATOMICAより)

被曝線量をGyで表記するから「発癌には、しきい値がある」という誤解、妄説が出るのではないか。放影研RERFは「等価線量に用いられるSvを使用した時代もあるが、等価線量に被曝組織・臓器の放射線感受性の違いを考慮した、放射線防護を目的とした指標である実効線量もSvと表記するため、放影研では、現在は荷重臓器吸収線量とし、単位はGy表示としている。」としてる。等価線量と実効線量を混同する弊害よりも、LSSの研究対象を晩発性障害=確率的障害ではなく確定的影響と誤認される弊害が問題ではないか。

前の5件 | 次の5件 原爆被爆者援護法 ブログトップ