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memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 地域爆撃指令(3) [原子力損害賠償制度]

英空軍のドイツ空爆は、先ずドイツの戦争経済のネックをなす合成石油工場を標的にした。戦闘機と高射砲の攻撃を避けるために爆撃は夜間に限られ、目視照準がとれず爆撃が成功しなかった。1941年中期には目標を都市に切り替えたが、この場合も、投弾が広く散らばって正確な爆撃はできないこと、民間人の損害が多いことが判明した。そこでチャーチルは1941年、空軍による出撃を中止させた。

m_FLAK20Towers2.jpg 参謀総長チャールズ・“ピーター”・ポータルはチャーチルを説得して、爆撃禁止令を解除させ、1921年にイラクのクルド人反乱に対して行った空爆手法、無差別絨毯爆撃を行うことにした。1942年2月のセント・バレンタイン・デーに行われた爆撃では、新しい主要目標は敵民間人の士気であるとの「地域爆撃指令」を出した。「それまで取っていた形式上の『精密爆撃』戦略を破棄し、意図的にドイツ工業労働者を殺害しドイツ人の戦意を挫く目的で無差別攻撃を行うことを公式方針とする」(田中)
 具体的手法はには、まず熟練した飛行士が操縦する先導爆撃機が、燃えやすい労働者住宅密集地域の目標点を空襲して、照明弾や目印となる火災を起こす。次いで本体が爆弾や焼夷弾を投下する。

 42年3月、バルト海に面する北ドイツのリューベック(Lübeck)を空襲する。ここには軍事目標がなく、旧市街地は世界遺産に登録されている文化都市である。二百数十機で空襲して試している。
「Lubeckは重要な目標ではなかったが、大きな工業都市を破壊しようとして失敗するくらいなら、中庸な工業都市を破壊する方が良いように思われた。しかし空襲の主な目的は、第一波が第二波を大火災の開始点として狙った場所へ、どれくらい上手く誘導できるかを学ぶ事であった。」(英国爆撃機軍団の司令官、アーサー・ハリス少将)

 焼夷弾にとって格好の燃料になる古い木造建築物が密集する古くからの街の中心部は焼き尽くし300名を越す死者と、1000名を超す負傷者を出し、街の2000以上の建物が大きな損害を被った。
 13機、5.5%の英国爆撃機が失われた。アーサー・ハリス少将は1ヶ所の目標に千機程度の爆撃機で襲い、ドイツの防空攻撃機、高射砲を圧倒する飽和攻撃をとるコードネーム「ミレニアム(千年王国)」大空襲の実施許可をチャーチル首相から得る。
 5月30日、ケルンに空襲をかける。ケルンは1時間40分にわたって1,455tの焼夷弾、爆弾で焼いた。大聖堂を残して旧市街の大半が破壊された。英空軍の未帰還は41機、3.9%に留まり飽和攻撃の効果は認められ、42年6月1日〜2日956機によるエッセン爆撃、25日〜26日に1,067機によるブレーメン爆撃と、2度の夜間「ミレニアム」を実施。
 こうした飽和攻撃を採れない場合、1943年初めには、爆撃機軍団の乗員で30回の作戦任務を実施できたのは全体の17%、爆撃機の寿命も40飛行時間とドイツ軍のレーダーを装備した夜間戦闘機と高射砲の防空能力が高かった。

 


memo 戦略爆撃 原爆へ至る道(2) [原子力損害賠償制度]

この英国の植民地支配のための空襲の他には、第二次世界大戦以前の例として次の空襲が人口に膾炙している。

1931年10月8日、旧日本軍による中国錦州爆撃
関東軍の爆撃機が、張学良の拠点となった遼寧省錦州を空襲した(錦州爆撃)。八十個の爆弾を投下し、市内の学校や病院を破壊した。

1936年3月29日、イタリアのグラツィアーニ将軍の空軍部隊がエチオピア東部の都市ハラールを焼夷弾による無差別爆撃で壊滅させている。

1937年4月のスペイン市民戦争におけるドイツ軍(一部イタリア軍も参加)によるゲルニカ爆撃
m_Gernika201937.jpg約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。焼夷弾による火災は16時間も燃え続けた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)

1938年12月4日から重慶爆撃(1943/8/23まで218回)、投下した爆弾は1940年には4333トン。当時は無線やレーダーなどで誘導する航法はなかったから、日本軍の戦闘要領指示の
「爆撃は必ずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主願とするを以て、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度二千ないし三千メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了する如く努められたし」という爆撃であった。

image011b.jpg犠牲者数は中国側の資料を元に推計すると約1万人にのぼった。市民の実に8割が損害を受けたといわれている。

ゲルニカにしても錦州にしても、軍事施設・人員の被害はほとんど無く、被害者の大多数は民間人だった。ここに戦略爆撃に対する非難が集中する。人道に反すると。

第二次大戦時のドイツ軍の英国空襲は、当初はドイツ本土からでは航続距離の関係から護衛に戦闘機を随伴させることができなかったため、夜間空襲に限られていた。港湾施設を爆撃していたつもりだったのだろうが、実際は住宅地域にまで被害が及んだ。1940年8月24日、テムズ河口の港湾施設に向かう際、ドイツ空軍のHe 111が航法ミスにより河に沿ってロンドンまで達し、そこで爆弾を市街地に投下した。
 イギリスは25日、ベルリンに夜間報復空襲を行った。
8月30日にヒトラーは報復の報復として爆撃目標をロンドンに集中するよう指示。大規模なロンドン空襲は9月7日、15日と行われた。9月17日にヒトラーが正式に英国上陸作戦準備の中止を命じた。

戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島

戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島

  • 作者: 前田 哲男
  • 出版社/メーカー: 凱風社
  • 発売日: 2006/08
  • メディア: 単行本

memo 戦略爆撃 原爆へ至る道(1) [原子力損害賠償制度]

第一次大戦

1903年に飛行機による有人動力飛行に世界で初めてライト兄弟が成功した。
200px-Zeplin_orta.jpg1914年に開戦した第一次世界大戦を通しての航空機の役割は、陸海軍主力(歩兵、砲兵、艦隊)の補助兵力(観測・偵察、地上攻撃支援)として用いられた。ドイツのツェッペリン飛行船やゴーダ爆撃機によるロンドン爆撃は、空からの攻撃が将来における主戦力への可能性を示し始めていた。その認識は軍人だけでなく政治家や一般市民にも持たれ、戦場でも銃後でも“これからの戦争は航空兵力だ!”と言う空気が醸成された。英国は大戦末期1918年4月、陸海軍の航空隊を統合して世界最初の空軍を誕生させる。

空からの攻撃論
 空軍独立論の嚆矢はイタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍(1869~1930)といわれる。彼は1909年、空軍力の運用についての論文を発表。1911年9月にイタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた伊土戦争が起こる。1912年トリノ陸軍第一飛行大隊に臨時大隊長(飛行船部隊長)として転属しリビア爆撃に参加する。彼は第一次世界大戦前「やがて航空機によって長躯敵の中枢部を壊滅させ、戦争の帰趨を決する時代が来る」としていた。大戦終了(1918)から3年後、1921年に「制空 Il dominio dell'aria」をだし大きな影響を与えたといわれる。

前提
(A)航空攻撃側の進入路は無数にあるが、防衛側はそれら全てに対応せねばならない。つまり防御側は100の内99が成功でも1つでも攻撃されれば失敗である。航空攻撃で完全防衛は難しい。
(B)また、強力な破壊力(爆弾など)を軍事目標拠点に正確に集中する100発100中の精密爆撃はできない。(現在のミサイルでも完全ではない)。結果として拠点周辺の市街地・民家への投弾は避けられないものになる。


(1)敵国の飛行場、工場、発電所、主要幹線、人口密集地等を最初に空中から敏速に決定的な破壊攻撃を連続し、叩けば、敵の物、心の両面の資源破壊により反撃を極端に激減させ、勝利できる・・戦略爆撃 strategic bombardment
(2)これからの戦争は兵士、民間人に区別はない総力戦であり、空爆で民衆にパニックを起こせば自己保存の本能に突き動かされ戦争の終結を要求するようになる。高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾などによる人口密集地の住民への攻撃は「最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられ戦争は長続きしない」「長期的に見れば流血が少なくするのでこのような未来戦ははるかに人道的だ」とした。・・無差別爆撃

英領ソマリ.jpg1918年に新設された英空軍RAF

参謀長、ヒュー・トレンチャード(1873~1956)が戦略を提起した。それは「敵住民の戦意と戦争継続の意思を低下させるための爆撃機による敵の銃後を破壊する攻撃が重要」で、植民地の法と秩序は在来の守備隊よりも機動力の優れた空軍による空からの統治のほうが安上がりで効果的に法と秩序が維持できるとした。

1920年、ソマリランドの反乱にZ部隊と呼ばれる航空部隊を派遣、反乱グループだけでなく、居住する村落や家畜なども空襲し鎮圧した。
1921年イラクをイギリスが委任統治領とすると、ベドウィンやクルド人らは自治独立を求める人々のイラクで反乱が発生、その鎮圧が始まった。英空軍RAFは鎮圧作戦軍の主力を空軍とし、悲惨な地上戦を避け爆撃での安上がに鎮圧できると、1921年3月植民相チャーチルの開いたカイロ会議で提案した。採用され、RAFの4個飛行中隊が派遣された。
 「反乱グループが拠点を置く村落全体や家畜が無差別に空襲目標にされ、ベドウィンの場合はテントに居住する女性や子供達も爆撃の犠牲者になった。ここでは、爆弾や機銃だけでなく、焼夷弾も頻繁に使われ、焼夷弾で引き起こされた村落の火災を拡大するためにさらに石油を散布する手段を使った場合もあった。英軍側は、空爆は反乱者たちを短時間に服従させる効果があるため、長期的に見れば『人道的な』反乱鎮圧方法であると主張し、自己正当化した。」(田中利幸、広島平和研究所 http://www.intl.hiroshima-cu.ac.jp/~hyoshida/2004/2004-2/041006.pdf

1922年10月1日イラクにおける陸軍は撤退して、英空軍RAFに属する8個航空部隊と4個装甲車連隊が守備軍となり軍権を握った。後にケニア、ウガンダなどアフリカ植民地、インド、ビルマに至るまで、英空軍RAFは英国の植民地支配の恒常的な手段となり納税拒否のような非協力的な行為にも空軍が出動して懲罰作戦を行った。


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東電核災害 原賠法(8)米国の核・原子力の基本法と核兵器の国際管理 [原子力損害賠償制度]

ルーズベルトのソ連と直接交渉路線

ルーズベルト大統領時代、大統領の原爆政策を担っていたヘンリー・スティムソン陸軍長官の【トルーマン大統領宛の覚書(1945年9月11日付)】がこのことを物語る。「原爆の管理のための提案」という題目で書かれた同覚書のポイントを以下に挙げる。
① ソ連の体制を変えることは重要だがきわめて難しい。
② アメリカが原爆保有国という立場を利用してソ連に体制の変化を強制することは出来ない。なぜなら,そのような強制は,ソ連の怒りを買い,結果的にわれわれの目標の達成を困難にするからである。
③ 現在政府内のさまざまな場所で、ソ連のユーラシア大陸での膨張政策に対抗するために原爆を外交手段として用いよとの見解を聞くが、このような考え方は、ソ連の核保有を促し、最終的には核軍拡を引き起こす。
④これ見よがしに原爆をちらつかせながらソ連との交渉を続ければ、彼らの疑惑と不信は募るばかりである。私の長年の経験で言えば、相手を信頼できる国にするには、まずこちらが相手を信頼しなければならない。
⑤ 原爆の管理という問題においては、ソ連との直接交渉が適切である。】
出典・・中沢志保、原爆投下決定における「公式解釈」の形成とヘンリー・スティムソン
http://dspace.bunka.ac.jp/dspace/bitstream/10457/62/1/001032115_04.pdf

アチソン=リリエンソール報告、46年3月 ・・核戦争の回避に重点

ルーズベルト大統領は1945年4月に急死し、副大統領のトルーマンが継承。ソ連と距離をおく姿勢を採ったトルーマン大統領は、ソ連参加の有無にかかわらず原爆をより広い国際管理の下に置く構想を検討させた。国務長官の下に国務次官アチソン(Dean G. Acheson)を議長に据えた委員会を設置した。メンバーは、ハーバード大学(暫定委員会委員)のコナント、カーネギー財団理事長(科学研究開発局OSRD初代局長)ブッシュ、グローブズ(マンハッタン計画司令官)、陸軍次官マクロイ。
これを補佐する顧問会議が、テネシー川流域開発公社(TVA)理事長のリリエンソールを議長として、オッペンハイマーなどの専門家によって構成された。

委員会は、オッペンハイマーの提案した、核エネルギーの軍事利用は国際管理下におくが平和利用は各国の自由に委ねることを基本方針した案を練った。
◎ 査察などの手法に依存した国際システムでは、核軍備競争への防護は不可能である。
◎ 破壊的な目的にいつでも転用可能であるという核技術開発を国家間で争うことが本質的な問題。

国際機関が原材料へのアクセス管理や核分裂物質の製造を監視し、核物質等を一旦すべて国際機関にプールし、それを希望国に貸与する。
「危険な活動」(ウラン濃縮や再処理等を含む主に原子力発電以外の活動)と「安全な活動」(主に原子力発電等)に区分する。
「安全な活動」の核施設にライセンスを与える。「危険な活動」は国際機関が独占的に実施する。原爆がある場合、国際機関がそれらを管理する

また、ソ連からの問題提起を想定し、管理システムをいくつかの段階にわけて、ソ連の出方をみながらつくりあげる。米国の知識や物質、兵器はソ連の協力の度合いに応じて段階的に提供する。

このアチソン=リリエンソール報告は1946年3月17日に、トルーマン大統領に提出された。

リリエンソールらは、4月、この報告についてラジオで次のように解説した。
「今日、合衆国が享受している……極めて有利な地位は、まったく一時的なものにすぎない」
「(この報告は)いかなる国も原爆や原爆の材料を作らないようにする計画を提示するものである。すべての危険な(軍事目的の…引用者)活動は、……国際的な機関によっておこなわれる。……安全な(平和目的の一引用者)活動は、各々の国家、産業、大学……に委ねられる。」

バルーク案、46年6月・・米国の核独占維持に重心

トルーマン大統領は、この報告がすでに反ソ傾向を強めていた議会の支持を得るには一工夫が必要だとして、国内的にも国際的にも敬意を払われうるような人物を国連原子力委員会への代表にすること。選ばれた人物は、75歳の金融家で、歴代大統領の腹心といわれていたB・バルーク(Bernard Baruch)です。

当時の米国国内世論は、①マクマホン法に見られるように原爆の秘密はしたままでの②「国連による原子爆弾の国際管理」です。アチソン=リリエンソール報告は、「ソ連との戦争の恐怖」を原子爆弾の国際管理でどう回避するかという姿勢で貫ぬかれています。B・バルークは「原爆の秘密は米国だけ持つ」という意見に重心を移します。国際管理に名を借りた、アメリカの優越性の維持です。つまり、ソ連が飲めないだろう受け入れない条件をつけて、米国の知識や物質、兵器をソ連の協力の度合いに応じて段階的に提供すること有名無実化する、悪いのはソ連と責任転嫁する形でアメリカの核兵器独占の維持です。

6月14日の第一回国連原子力委員会で、米国が提示した案、バルーク案は先ず核兵器を含む完全軍縮を呼びかける、これとは別に安保理事会管轄下で「国際原子力開発機関」設置する。アチソン=リリエンソール報告の内容に加えて、国際管理に反して核兵器を使用した国に対し国連が武力制裁する。この制裁に限って、拒否権を無効にするという案です。

国連総会でも安保理事会でも西側が多数を占める状況のなかでは、アメリカの提案が通ることは間違いありません。バルーク案では核兵器の凍結・廃止は別問題、別扱いですから、アメリカのみが核兵器を独占し、自由に使える状況は変わりません。米国は、ウラン鉱石は米国が抑えている、当時知られていた最大の (純度の高い) ベルギー領コンゴのウラン鉱山を独占。ソ連領土内からはウランを発見できず、はなかなか入手できないとみていました。ですから、バルーク案はソ連の核兵器開発を国連の名のもとに禁止することも狙っています。

ソ連は6月19日に対案、グロムイコ案を提案。それは(1)核兵器の使用禁止が開発機関設置の前提
(2)安全保障理事会の下部機構で拒否権は有効とする案です。またソ連はフランスと協調し、国際管理へのアメリカの熱意を証明するためにも、核兵器不使用のための保障措置が合意されるまでアメリカが核兵器の製造を中止するよう求めた。しかし、米国は7月1日原爆実験、戦後初の原爆実験をビキニ環礁でおこい、5日に拒否を外交ルートで伝えてきました。 これで、米国は譲らない、核を独占し続ける姿勢が名実ともにはっきりしました。
 互いに交渉決裂、国際機関案を流した名目的責任を相手に被らせようという駆け引きがありましたが、1946年12月31日に「国際原子力開発機関」設置話は流れてしまいます。

各国の反応

英国は、高名な物理学者のパトリック・ブラケットが1945年11月に原爆開発に反対する秘密メモランダムをブラケット報告を英政府にだしています。それは「英国が原爆を開発すれば、資源や物理学者が他の必要産業分野から奪われてしまい、また、核拡散を刺激することにもなる」「イギリスはもはや大国ではなく、再び大国にはならないだろう。我々は偉大な国民であるが、もし、これからも大国のように振る舞いつづけるなら、偉大な国民でもなくなるだろう。」
 しかし、国連で原爆製造、開発の凍結「国際原子力開発機関」設置が1946年12月31日に流れると、47年1月に原爆開発プランの実行を決めます。その結果、英国は自国の発電所の更新すら外国資本に頼る有様になっています。

ソ連は、世界最古のウラン、ラジウム産出地であるチェコスロバキアのヨアキムシュタール鉱山のほか、チェコスロバキアと国境を接する東ドイツのザクセンの鉱山に、ナチスの技術者を監獄から釈放して主任顧問にしたり、粉塵まみれの安全に全く配慮しない労働を課して多くの死傷者を出して開発し、1946年の135トンから1948年には900トンまでウラン鉱石を掘り出します。

1948年に黒鉛原子炉完成、翌49年に減速のプルトニウム生産用重水炉が完成し、9月頃には原爆2個分のプルトニウムを所有。8月29日に最初の原爆実験が行われます。


東電核災害 原賠法(7)米国の核・原子力の基本法と統合参謀本部 [原子力損害賠償制度]

白昼夢を紡ぎ出す統合参謀本部

9月に原爆を持つ「敵対国が侵略軍を配備していることが明らかになれば、米国への第一撃を許すことはできない。米国政府は、必要ならば第一撃の万全な準備と敏速な政治決断をすべきである」と言いう見解を、大統領の承認つまり国家方針にしようとした統合参謀本部は、この見解をさらに深化させていきます。また、この時点では統合参謀本部は何の法的根拠もない、日本流にいえば大統領の私的助言機関で、チェク監視されていません。

45年10月30日、統合参謀本部・JCSは統合戦略調査委員会・JSSCの報告書・JCS1477/1を受け取っています。この報告書は、原爆が戦争や軍事機構にどのような影響をもたらすのかを分析した結果です。
 「他の国が原爆を持てば米国の安全保障は大きく損なわれる。今後の戦争は、侵略国による大規模レベルの奇襲攻撃(パールハーバー効果)で始まる可能性がある。」
 「原爆に対する防衛はない。脅威となる攻撃のもとを断つために、即時防衛(immediate defense)の準備だけでなく、必要ならば第一撃での即応性が重要となる。そのような攻撃的防衛にはすべての種類の戦力の使用が必要だ。」
 「ただ、現在は原爆の数に制限があり、年間の生産も約10発くらいである。使用は主要目標に限定される。原爆は戦争継続に不可欠な敵側の産業集中地域を破壊する戦略兵器であり、国家の士気をくじいて恐怖を抱かせるために人口密集地にも使用されうる。例外的な事例は、通常兵器による作戦を支援する戦術的な原爆の使用である。ただし、原爆の数をさらに増やさねばならない。限られた数の原爆を最大限に活用するには、本土以外に原爆攻撃の基地を保持する必要がある」

11月3日に統合情報委員会・JICは20~30発の原爆による対ソ戦の原爆投下目標を検討、選定結果を「米国の限定的な原爆攻撃に対するソ連の戦略的脆弱性」JIC329としてまとめた。モスクワやゴーリキー、レニングラード、クイビシェフ、スベルドロフスク、ノボシビルスク、オムスク、サラトフ、カザンなど20の都市を選定。基準は戦争継続に不可欠な敵側の産業集中地域の破壊、国家の士気をくじいて恐怖を抱かせるため政府行政機関や人口密集地。これは、広島や長崎を選定した考えと基本的に同じです。

ただ、原爆の生産高・能力は軍事機密でこの時点では統合参謀本部、大統領すら正式、公的には知っていません。年に約10発位というのもいわば臆測です。臆測では20~30発出来るのは2~3年先、47~48年です。その時点で産業生産施設の破壊と人口密集地に投下し多数の人命を奪って恐怖を抱かせソビエト・ロシア国家の士気をくじいて勝つ算段を臆測の上にたてている。46年7月29日のJWPC 486/7では、34発で数百万人の市民死傷で戦争計画を立案している。

47~48年にはソビエト・ロシアの数百万人の市民死傷する核戦争が準備できる。この時期を過ぎると「原子エネルギーの秘密を提供しなくても、ソ連はおそらく5 年以内(1950年)にこのエネルギー形態を開発し、利用しうるだろう。」(統合参謀本部の下部機関、統合情報委員会JISの10/19評価、JIC250/435)と見ていましたから、ソビエト・ロシアの原爆を使った反撃を覚悟しなければならない。そして「原爆に対する防衛はない。」のですから「脅威となる攻撃のもとを断つために、・・第一撃での即応性が重要となる。」としています。

パーキンソンの法則

このような白昼夢の妄想を紡ぎ出し大統領の承認を得ようとするのは、統合参謀本部とその下部機関の○○委員会を構成する将官たち。戦争が終われば、兵員、米国の場合は未婚の若い男性を徴兵した兵員が除隊する。軍の規模が8分の1程度に縮まる。伴って管理職の将官、佐官クラスも当然その程度に減る。減らさなければならない。軍は官僚組織ですから、パーキンソンの法則から逃れられない。「役人はライバルではなく部下が増えることを望む。」「役人は相互に仕事を作りあう。」「官僚が増えれば、その分仕事がなければならないが、それは実際に必要ではない仕事を創造することでまかなわれる。」

原爆製造のマンハッタン計画は、シビリアンコントロールが働き、米国民の世論が作用すると開店休業状態になる可能性がありました。当時の世論は「国連による原子爆弾の国際管理を73%支持」「核兵器不使用の国際的合意を五大国を中心に作り上げることに対して67%支持」です。文民の原子力委員会(AEC)が、軍民を問わず核分裂物質の完全な管理を行うマクマホン法案が成立し、この世論に沿った核分裂物質管理、弾頭管理を行えば、数百万人の市民死傷する核戦争を準備する原爆製造計画は難しくなる。

スピン・情報操作

 それでマンハッタン計画の責任者グローブス将軍は情報操作、スパイ活動のリークで世論操作をおこなった。
 グローブス将軍は1942年秋のマンハッタン計画始動の直後から原爆の機密へのソ連のスパイ活動の動向を責任者として把握していた。彼は、その動向を掴むだけで防諜のための措置、例えばスパイ摘発などはしなかった。というのはグローブズは科学的に見て、盗めばそれで原爆が作られるような「機密」はもともと存在していない事を知っていた。スパイ=ソ連が知りたがることから、逆にソ連の原爆開発状況が推測できる。大統領も知っていて、泳がせていた。
爆縮.jpg プルトニウム原爆は、分割したプルトニウムを火薬の爆発で何百万分の一秒単位で集めて核反応を起こす爆縮が技術的難関、鍵。マンハッタン計画ではジュリアス・ロバート・オッペンハイマーが、ロスアラモス国立研究所の初代所長としてこの爆縮技術の開発している。彼は所長として各部門がバラバラに進行していたマンハッタン計画の全貌を知る立場でもある。オッペンハイマーの妻、実弟らはアメリカ共産党員であった。FBIの反対をグローブス将軍は押し切っている。グローブス将軍は、原料のウラン、コンゴのウランさえ押えておけばアメリカの原爆独占は20年は続くと考えていた。情報が米国以外の国に渡ろうが、原爆はできないと考えていた。

 グローブス将軍は広島・長崎の原爆投下直後、1945年8月12日にマンハッタン計画の公式報告書を公表して200px-Smyth_Report.jpgいる。正式なタイトルは「軍事目的のための原子力エネルギー:合衆国政府の後援の下の原子爆弾開発に関する公式報告書(Atomic Energy for Military Purposes: The Official Report on the Development of the Atomic Bomb under the Auspices of the United States Government 1940-1945)である。執筆者が物理学者のヘンリー・ドウルフ・スミス(Henry DeWolf Smyth)  だったので、スミス・レポートの名前がある。アメリカ国民に原爆開発の説明責任をはたそうという意図で作成された報告書で、すべて一般的な科学的知見にもとづく記述だが、放射能は「毒性が強い」と記述してあったが、これはグローブズ自身が削除した。
 原爆の製造方法は明らかにされていなかったが、どうすればうまくいかないかは説明されていた。このスミス報告は1948年に、原子力委員会によって、ソ連などのゼロから出発する国々には計り知れないほど利益を与える「重大な機密違反」の烙印を押された。
 詳しく・・http://en.wikipedia.org/wiki/Smyth_Report

 このように、ソ連のスパイ活動は原爆製造に関しては殆ど価値がないが、国民の耳目を惹きつける力があった。グローブズ将軍はその力を使った、その長年握っていたソ連のスパイ活動の情報をマスメディアに漏らした。
「1946年2月3日、アメリカのラジオは、ソ連のスパイ団がカナダで暗躍していると報じた。
 この報道は、それ以上の詳細な情報を含むものではなかったが、ただちにアメリカとカナダに大反響を呼びおこした。アメリカでは、連日の労働争議や原爆に関する議会の対立という記事が霞んでしまうほどであった。これに追い打ちをかけるように、16日には、今度は、アメリカ国内でもソ連のスパイが暗躍しており、その目標は原爆製造に携わっている科学者と彼らの情報であるという暴露記事が、新聞に掲載された。この記事は前のラジオ報道とは比較にならないほどの大騒ぎをひきおこし、何週間にもわたって連日、共産主義の『原爆スパイ』にまつわるヒステリー気味の報道がおこなわれた。」
 「この一連の報道によって世論は一変した。1946年3月の世論調査では、かりに戦争に突入した場合、アメリカ本土にたいする原爆奇襲攻撃の手段は飛行機以外に何があるかという問いに、『破壊行為』と答えたものは14%に達し、スパイ活動にたいする国民の恐怖心の昂まりを示したのである。」

 この情報操作で、ソ連が米国に原爆を使う、飛行機やスパイで持ち込んで使う、だから「米軍によって」まもろうという世論が強まります。グローブズ将軍の原爆製造のプロジェクトは続くし、米軍全体も仮想敵国ソ連に対抗するという名目で予算が得られます。

シビリアンコントロールを利かせ、文民の原子力委員会(AEC)が、軍民を問わず核分裂物質の完全な管理を行うマクマホン法案も変質します。3月末、委員長マクマホンを除く両院合同委員会全員の賛成で可決された法案は次のように変わっています。
 原子力委員会に、委員会の決定を再審理し、大統領に直接訴えることができる「軍事連絡委員会」を付設する。つまり軍部がお目付け役をする。
 また、情報は、基礎的科学的と応用的技術的とを問わず、一律に公開を制限することになった。後者の情報の独占、米国の独占で、国際管理の道を閉ざされた。英国、フランスは独自に核爆弾を開発する道に踏み込みます。核拡散です。


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