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MA-T計画・奄美徳之島再処理工場計画ー壱 [使用済核燃料、再処理、廃棄]

青森県六ケ所村に建設された使用済み燃料再処理工場は、鹿児島県奄美の徳之島が、最初の候補地であったことは、ほとんど知られていない。MA-T計画と名付けられ、詳細な施設配置図も描かれた。この核燃料再処理工場立地計画を、島民は打ち砕いた。

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高度成長期以降、日本の周辺地域は労働力の供給と製品の販売、そして迷惑施設の立地に利用されてきた。枝手久島巨大石油基地、徳之島核燃料再処理工場、普天間米軍基地移設など、迷惑施設の計画が 人口と産業流出に苦しむ奄美群島に持ち込まれ、時には島民間の激しい対立を引き起した。しかし結局それらの計画の多くは押し返された。本土の迷惑施設を押し返し続けてきた奄美の力の源泉は何か。
 奄美は、敗戦後1953年12月24日までアメリカ合衆国(琉球列島米国民政府)の統治下にあった。復帰後の1970年代、高度成長期の真っ只中のころ、石油コンビナートと原発ゴミの再処理工場の立地が、ほぼ同時期に奄美に降ってわいた。枝手久島石油基地計画は、奄美大島の西0.4km、焼内湾内にある長さ4.5km、幅1.5kmの5.81k㎡の長方形の無人島、島グチでイザトバナレ、共通語で枝手久島(えだてくじま)の周辺海域を埋め立て、石油備蓄基地を建設する計画で、1973年に東亜燃料工業(現JXTGエネルギー)が提案してきた。1976年には徳之島再処理工場計画・MA-T計画である。

 1609年の島津氏による琉球侵略以降、与論島以北の奄美諸島を琉球王国から切り離し、島津氏が直轄植民地として支配した。幕末が近づくと「キビを少し齧っただけで死罪」の専売制を布き、利益を藩借金100万両返済や討幕資金にした。島民集会の宣言文に「先祖伝来、苦難の歴史をのりこえてきて、今日この美しい徳之島を見るとき……未だ経験したことのないこの恐るべきたくらみを断じて許すことはできない」という一説がある。東京での抗議運動中に40人が逮捕された。しかし結局それらの計画の多くは押し返した。

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金丸三郎鹿児島知事(67~77年まで)の時代である。この石油コンビナートと使用済み核燃料の再処理工場・徳之島のMA-T計画を2大テーマにした本が『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島』である。出版社: 南方新社から2019年3月に出された。著者の一人、樫本喜一カシモト よしかず大阪府立大学客員研究員の二つの論文、「徳之島の核燃料再処理工場立地計画と住民による反対運動の形成過程についてhttp://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/11500/1/2010000375.pdf

使用済核燃料再処理工場離島設置案の歴史的背景に関する一考察http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/12794/3/2013000010.pdf

これらを見てみよう。

続く

タグ:再処理工場
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