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残存リスクと被曝防護⑥シビアアクシデントでは再避難、再々避難が不可欠 ヨウ素剤検討会『2001.11.13、第4回』メモ [防災‐指針・審議会]

原子力施設等防災専門部会 被ばく医療分科会 ヨウ素剤検討会|原子力安全委員会
http://www.nsr.go.jp/archive/nsc/senmon/shidai/youso.htm
  議事次第/配布資料/速記録 の案内
7回全部 http://hatake-eco-nuclear.blog.so-net.ne.jp/2015-05-27-8

 『2001.11.13、第4回』の議事録を手掛かりに

この前、「避難のリスク」 http://hatake-eco-nuclear.blog.so-net.ne.jp/2015-10-06 
「放出の前又は直後の避難」よりの続き。
http://hatake-eco-nuclear.blog.so-net.ne.jp/2015-10-07

福島県南相馬市の高齢者施設を例に防護措置を検討した論文が発表された。
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0137906

Evacuation-related risks were likely attributable to the combined effects of physical stress due to movement, limitations on medical resources, and changes in medical staff [10–12]. The increase in mortality rate was not significantly correlated with movement distance or the number of repeat evacuations . The contribution of physical stress due to movement might be related to the manner of evacuation, including the level of care received during movement. After the accident, these radiation-risk areas were isolated and had insufficient medical resources. Changes in medical staff may have been among the factors related to the increase in mortality risks after the evacuation, because the medical staff who initially cared for the nursing home residents might have had difficulty in continuing that care at evacuation sites. Preparation of medical protocols or enhancement of communication among staff might have mitigated the increased mortality risks. However, even if nursing home residents could have been evacuated smoothly and without stress or medical problems related to resources and staff, other, non-evacuation-related, risks, including the effects of disaster shock, were likely inevitable. On the other hand, staying without evacuation for a longer time might have placed the residents at additional risk because of increased physical or mental stress and limitations on drug supplies.
グーグル先生の和訳
避難関連のリスクは、移動による医療スタッフの変化、医療資源の制限物理的なストレスの複合効果に起因する可能性があった。移動距離や繰り返された避難により死亡率の増加は著しい。移動による物理的ストレスの寄与は、移動中に受信したケアのレベルを含む、避難の方法に関連している可能性があります。事故の後、これらの放射線リスク領域を単離し、不十分な医療資源を持っていました。最初は老人ホームの居住者の世話、医療スタッフが避難所でそのケアを継続することが困難であった可能性があるため、医療スタッフの変更は、避難後の死亡リスクの増加に関連する要因の間であったかもしれません。医療プロトコルやスタッフ間のコミュニケーションの強化の調製は、死亡率の増加のリスクを軽減している場合があります。しかし、特別養護老人ホームの住民が円滑かつ資源やスタッフに関連するストレスや医療問題なく避難している可能性があっても、他の非避難関連、災害ショックの影響を含むリスクは、おそらく避けられました。一方、長い時間のための避難せずに滞在しているため増加した物理的または精神的なストレスや薬物供給に制限の追加的なリスクに住民を晒している可能性があります。
以上抜粋 
平常時の転院や介護施設間のタライ回しが、要介護の高齢者などには良い影響を与えない。慎重に転院は行う。施設が異なる場合の申し送りなど介護職員間のコミュニケーションの有り様には特に意を払う。論文の指摘する注意点は、この平常時の留意する範囲にとどまる。原子力防災計画の立案時にこうした点は、どのような扱いを受けていたのであろうか。
福島県富岡町は、北に東電福島第一、南に第二原発が立地して、町の中心部は法の「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(日本版EPZ)にスッポリ入っている。指針では、環境などからの外部被曝の実効線量の予測線量が、50mSvを超えると避難や屋内退避の指示が出さることになっていた。避難指示が出た場合の「重点的に充実されていた防災対策」は、実効的であったろうか。
日本版EPZの実効性 
屋内退避や避難の指標03.gif山沿いを除く町の殆んどが「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(日本版EPZ)であって、福島第一と第二の事故で全町民の避難指示が当然に想定されうるのに考えたこともなかった。防災計画の指針、方針を定める原子力安全委員会と原子力保安院の責任。
避難道路
避難に使う国道や県道の道路は、拡幅・拡充整備は原発建設以来行われていなかった。町は原発が建設されてから約40年間要望してきている。必要性を認めなかった国と県の責任。
避難時間
「通常なら30分で着く川内村に3~4時間以上もかかった渋滞は、町民の一斉避難のため起きたもので夕方には解消したのだが、いわば起こるべくして起きた事態だった。」と移動時間が6から8倍になっている。論文は移動距離movement distanceと死亡率の著しい増加の関連を指摘する。しかし、問題なのは距離ではなく時間の方ではないか。身動きを自由にとれない車中に閉じ込められる物理的ストレスの増加は、時間の方が要因である。このストレスも国と県の責任である。

移動手段
施設入居者など交通手段を持たない町民の避難の足も、準備されていなかった。「原子力防災対策の特殊性等
 放射線による被ばくが五感に感じられない、被ばくの程度が自ら判断できないこと等がある。」と指摘されている。http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=11-03-06-01

 それだけではなく、避難や屋内退避、安定ヨウ素剤投与にしろ「一度」に「全町民、全市民規模」になる点も特徴だと考える。日本の原発は町境、市境など自治体の境目に設置されているから、近隣の自治体地域からリソースを調達することが難しくなる。”技術的見地から十分な余裕”を持たせたた「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(日本版EPZ)の目安原発から半径8~10㎞でも起こりえたし、事故規模が全く大きく違った3.11東電核災害では奪い合いになった。後でも検討する。
避難場所には最初2~4㎡/人、長期化したら8㎡/人は必要
繰り返される再避難

避難者一人当たりの必要な避難所の面積は、概ね2~4㎡と云われる。建築基準法上の床面積ではなく、階段や柱などのほか、固定された棚の配置などにより居住スペースとして使用できない面積を差し引いた面積:有効建物面積である。
http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/pdf/080619_fukushi_hinanjo_document.pdf
ただし、避難所の開設が長期化するにつれ、炊き出し、更衣や洗濯、談話等のためのスペースが必要となるので、最終的には避難者 1 人当たりの有効建物面積では、8 ㎡程度確保することが望ましいと考えられている。
https://www.pref.chiba.lg.jp/bousaik/k/documents/1syou.pdf
原子力災害、特にシビアアクシデントでは、放出される放射能の放射性ヨウ素の減衰、崩壊による減衰を考慮すると、半減期から2~4週間は短くても避難が続くことは高い蓋然性がある。従ってより広い避難所、炊き出し、更衣や洗濯、談話等ができる広い避難所への再避難を繰り返すことになる。
富岡の例
川内村避難_.jpg富岡町の全町民約1万6千人だから、当初でも約3万2千~6万4千㎡が必要、長期化するにつれ約13万㎡が必要となる。12日の避難先は川内村。
川内村主要な施設
川内村村民体育センターの体育館は、建築面積 1,124㎡ アリーナ面積 742㎡。
川内村コミュニティセンターは、1,438㎡(建物面積)
いわなの郷体験交流館は、ふれあいホールの172㎡、交流室の58㎡、研修室の37㎡。
川内村小学校は、校舎面積(屋体も含む)5,926㎡。
川内中学校は、校舎はRC造平屋建で建物面積3,777㎡、屋内運動場の建物面積1,308㎡
「川内村小学校、富岡高校川内分校、いわなの郷といった施設と、各地区の集会所等が避難所(当所19ヵ所)として、富岡町民優先で開放された。入りきれずに車の中で過ごした人など多くの町民がお世話になった。」
川内村には約6000人「残りの約一万人の町民はどこに行ったのか?」。この約6000人には、12日「川内村に落ち着いた町民には、念のため『安定ヨウ素剤』が配布された。本来は国・県の指示で配布・服用されることになっていたが、第一原発の1号機爆発直後から、町民の間には被ばくの不安が一気に高まっていた。その不安に応えるかたちで、希望者に配ったものだった。配布に際しては、配布は町独自の判断であること、本来は医者の診断で服用するものであること、子どもには半分にすることなどを説明し、服用するしないはそれぞれが判断してほしいことを伝えた。後の調べでは、手にしたほとんどの人が服用したものと思われた。」
13日、14日と誰もが気が立っている中、苦情トラブルも増え、また問題行動なども目立ち始めた。原発事故の収束の見通しはなく15日11時には第一原発から半径20㎞から30㎞圏内の住民に対する屋内退避の指示が出された。14日までは半径20㎞圏内だった。独自の情報を得て自主的に避難移動する町民が増えていった。午後1時、川内村は防災無線で「自分で動ける村民は自主避難を」の指示を流す。富岡・川内の幹部は避難先を探り続けた。

 どこに避難すればいいのか? 県では南会津と群馬県の片品の方へと言っていた。だが、この寒さの中南会津に向かったら、避難所暮らしで体が弱った高齢者は耐えられない。しかもピストン輸送するとしても時間がかかりすぎる。「会津は無理だ、何とかならないのか」と語気を強めて県と押し問答をしていた遠藤町長が「わかった、もう頼まない」と電話を切った。

 そして以前から親交のあった県職員が館長を務めてた「ビッグパレットふくしま」(以下、ビッグパレット)に電話をした。ビッグパレットの建物も大きな損傷を被っていた。また、郡山市の指定避難所として、震災後、市内の高齢者など200~300人の避難者を受け入れ、郡山市の担当職員も付いていた。泊まり込みで施設の被害対策に当たっていた館長本人が、たまたまその電話を取った。遠藤町長が事情を話し「頼む!」と言うと、二つ返事で引き受けてくれた。「自分が責任を持つから」との英断だった。
 川内村約5,000人と一緒に郡山市へ、「ビッグパレット」へと避難することが決まった。
高齢者施設の避難
▽舘山荘 特別養護老人ホーム定員80名、記事発見できず

▽東風園 養護老人ホーム定員75 名
 養護老人ホーム東風荘に入所していた高齢者グループに、川内村への避難以降付き添ってきた職員は、最初2階に案内された。体の不自由な人も多いので大変だなと思ったが、こういう事態なのだから仕方がないか、と従った。だがその後、1階のコンベンションホールを解放できるとの案内を受け、2階に上げたものを移動し直した。東風荘の看護職員や施設長、施設に入所していた高齢の避難者らが同ホールへと移動した。

▽グループホームシニアガーデン(同)定員が19名
3本の記事よりまとめた。
シニアガーデンは、認知症の高齢者のためのグループホームで、東京電力福島第1原発から約9キロの福島県富岡町にあった。
2015022400034_2.jpg
 
大地震発生後、隣の児童館にひとまず避難しましたが、その後、施設が福島第一原子力発電所から9km圏内にあったため12日の防災無線で「(原発から)20キロ圏外に避難してください」といった避難指示を受け、利用者21人と職員24人は着の身着のまま13台の自家用車や施設の車に分乗し、誰もが4~5日の我慢と考え川内村の蕎麦屋のお座敷に避難しました。
3月16日、さらに川内村にも屋内退避指示が出され、大規模な避難所では高齢で認知症の方々が一緒に生活するのは困難。行くあてがなかったところに、福島県認知症グループホーム協議会の紹介で福島市内の施設に避難。白い防護服を着た医師が呼吸困難の高齢者を診断する姿を見て、100歳の入所者はパニックに陥り、夜通し騒いだ。認知症患者は環境の変化に戸惑いやすく、避難所で動き回るなど問題行動を起こしやすい。
3月22日からは福島市内のアパートを自費で借りた。アパートでは、環境の変化で入所者の認知症状が変化し、職員の気づかないうちに施設の外に夜中に外に出て通行人が見つける、警察に捜索をお願いしたりなどの騒ぎが3回あった。
阪神淡路大震災後の仮設での孤独死を受けて、2011年4月に厚労省から仮設住宅の中に仮設グループホームを建設することの許可が出た。すぐに建設を依頼した。(6月2日には利用者は15名と6人減っている。)震災から7カ月目の10月11日に入居者13人、職員13人で引っ越しました。このように震災から1年は、避難先5カ所を転々とした。
 浜通りの温暖な気候で、90代まで生活した入居者たちにとって、中通りの蒸し暑さは体力を消耗させました。もともとの病気が悪化して脳梗塞(のうこうそく)を再発したり、ストレスによって胃潰瘍(いかいよう)の吐血したり、下血で血圧が70まで下がり救急搬送されたものの、被ばく検査のためのスクリーニングを行うまでなかなか救急病院に収容してもらえなかったそうです。入退院を繰り返したりする利用者の命と向き合い、家族の代わりに看取りました。
①2011/6/ 2付 難民を助ける会 仙台事務所 田中 育さん記事 http://www.j-cast.com/2011/06/02097403.html?p=all
②2011年11月17日の共同通信記事より、 http://www.47news.jp/feature/kyodo/news04/2011/11/post-5679.html
③朝日新聞の記事より http://apital.asahi.com/article/shinsai/2015022400034.html
さて、この避難で回避された被曝の線量は幾つ位なのだろうか、50mSv? 100mSv?? 
避難による医療スタッフの変化、医療資源の制限の項に続く

 

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