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memo 戦略爆撃 原爆へ至る道 戦略爆撃の大焼殺(ホロコースト)化(6) [原子力損害賠償制度]

 爆弾+焼夷弾の火炎無差別空襲

1943年5月16日、英空軍はメーネとエダという大型ダムを爆破し、洪水を引き起こす爆撃を行った。1069人が死亡、行方不明225名、重軽傷1294名。

1943年7月末からのハンブルグ(人口約120万人)に、イギリス軍が夜間に続いてアメリカ軍が昼間に攻撃で8m_Eine20Mutter20C3BCber20dem20Kinderwagen20ihrer20Zwillinge20im20Tode20erstarrt.JPG昼7夜に及ぶ「24時間体制」の爆撃が計画された。24日午前1時頃に英空軍空襲が始まった。27日の空襲で「火災旋風」が起きた。炎を伴った竜巻が発生して、最大風速は240km/h、気温は800℃に達し屋外は溶鉱炉さながらとなった。市街は21km²に渡って焼け落ち、街路のアスファルトが突然発火して防空壕へ避難した者もしない者も大勢死亡した。約4万人が死亡した。ほとんどは地下防空壕から空気が吸い出された結果として発生した一酸化炭素による中毒の市民の犠牲者だった。市民の3分の2、約80万人が市を離れた。
 この約1週間の空襲、コードネーム「ゴモラ作戦」は、延べ3,095機の爆撃機が出撃して、40機がドイツ軍に落とされ、ハンブルク上空に到達した2,630機が約9,000トンの焼夷弾、爆弾を投下した。少なくとも5万人を殺し、負傷者3万7千人、約315,000戸の家屋が破壊され100万人を越えるドイツ市民が家を失った。その後の調査では死者の50%は成人女子、12%は子供、成人男子は38%、非戦闘員が多い。イギリス政府は後にこれを「ドイツのヒロシマ」と呼んだ。
 大工場の被害は少なく、五カ月後には空襲前の生産力の八割を回復したとされる。

43年11月、米国航空軍はノルデン照準器が無用の夜間攻撃とレーダー使用する爆撃を許可した。当時のレーダー使用爆撃は「盲目爆撃」というほど精密度が低かった。つまり、米軍の戦略爆撃は公式には軍事目標への「精密爆撃」であるが、実は無差別爆撃へと変更された。

1944年3月にチャーチル首相は米国に「炭疽爆弾」50万個を注文した。ドイツの地域に投下し、その地を居住不能にしようする生物兵器空襲を計画した。(連合軍がドイツ本土に侵攻するので取りやめになった。)。ダム爆撃による洪水作戦や爆弾+焼夷弾の火炎無差別空襲といい、「敵の武装軍隊と戦うという伝統的な軍事教義が放棄され、それに代って国民生活を攻撃するという計画がとり入れられた」(戦争研究、プラッケット、岸田純之助・立花昭訳、一九六四年)


44年6月6日のノルマンディー上陸作戦、当初からアイゼンハワー将軍はドイツ軍の輸送を麻痺させるため鉄道網と燃料供給を断ち切る石油とくに合成石油工場を爆撃することを計画した。それによって、フランスやベルギー市民も数万人単位で死亡することをやむなしとした。1500名のル・アーヴル市民を殺し、カーンでも3000名、ブローニュやカレーの湾岸要塞への爆撃で6000名という「フランス大虐殺」が行われている。
石油工場爆撃でドイツの石油供給は、その夏には激減した。

このように石油の供給が激減しても、ドイツ軍は頑強に抵抗し、秋になっても連合軍はドイツ国境を越えられなかった。それで、冬季に英米両軍はドイツの鉄道網にレーダー爆撃を開始した。これ表面上は鉄道操車場に精密爆撃を加えて軍事輸送を切断するものに見えるが、レーダー使用爆撃は「盲目爆撃」である。実際は軍事施設をもたない地方の小都市にまで無差別地域爆撃を加えることを意味した。

 44年12月から45年2月の「クラリオン作戦」は、そうしたドイツの小都市や村に低空飛行で侵入し、機体を見せつけ爆音で脅しつけ爆弾、焼夷弾で空襲する。鉄道網の破壊が表看板だが、ドイツの民衆を焼殺(ホロコースト)し、ドイツ人の戦意壊滅を狙ったである。1945年2月23日の夜に英国空軍(RAF)によって行なわれたプフォルツハイム市空襲で、町の人口の約4分の1、即ち17,000人以上が死亡し、町の建物の83%が破壊された。

1945年2月13日のドレスデン空襲では、重量のあるブロックバスター弾で屋根や窓を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風を発生させる第一波空襲。さらに第二波空襲で消火及び救助活動に当たる人々を殺傷するという計画された。
 ドレスデンには目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通り美しい街並みと数多くの文化財が知られた都市である。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であり、高射砲などの兵器も他地域に移動するなどして、空襲への防備は手薄。
 合計3900トンの爆弾、焼夷弾が投下された。第二波の空襲で疎開の子供たちを乗せて発車を待っていた列車は瞬く間に火に包まれ、子供たちは全員丸焼きになったそうである。14日昼の米軍の第3波空襲では、500㌧の爆弾と300㌧の焼夷弾が投下され、エルベ河畔にいた被災者を機銃掃射で狙い撃ち。
埋葬者は25,000人から最大で60,000人といわれる。しかし人口62万人で約20万人とも言われる避難民が当時、市に居たとされ正確な生存者数、死傷者数は判らない。

このドレスデン空襲の二十数日後には、東京大空襲が行われる。

ドイツ全体では第二次大戦中に131の都市や町が空襲を受け、英国空軍だけで100万トンの爆弾を投下し、60万人が直接死亡し、350万戸が全壊したと言われている。

ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945

ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945

  • 作者: イェルク・フリードリヒ
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2011/02/22
  • メディア: 単行本

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